種をまく日々

生き下手人間の奔走する日常

溢れるエネルギーを

今日も仕事を早退。

昨日休んだことでできなかった仕事を終わらせるために出勤したところ、昨日休みだった先輩が休日出勤してその業務を終わらせてくれていたと知り、申し訳なさと不甲斐なさと悔しさで泣いてしまいました。

泣くって相手を困らせたり気を遣わせたりする卑怯な手だって思ってたから、泣くまいと頑張ってお礼を言ったけど、それでもやっぱり申し訳ないのと悔しいのとで泣けてきて。先輩は「あらら泣かせちゃったね〜大丈夫、全然気にしなくて良いんだよ」「たねさんのことだから、責任感じて体調回復しなくてもそれをするために出勤してくると思ったから。こういうのはね、やれる人がやれば良いんだよ、だから気にしないで。帰ってから気に病んで悪く考える必要もないからね。私が大変な時は助けてくれたら良いからね」と笑顔で優しく声をかけ続けてくださって。

私には日頃から先輩方のようにそんな優しい考えなんて微塵もなくて。なんなら今までだったらそれすら「良い上司でありたいから言うことなんでしょ」とか綺麗事・お世辞としか感じてこなくて。泣いた理由も、先輩の厚意に対する感謝よりも、自分のせいで相手に負担をかけてしまった申し訳なさと同時に、仕事は最低限でやりたいのにそんなことをされたら自分はもっと頑張りを強いられているような息苦しさ、自分は人にそんなことをさせてしまう休み方をしてしまったことの不甲斐なさ、自分の誤った頑張り方で結果嫌な思いをして泣く羽目になっていることの悔しさなど、負の感情ばかりでした。

「泣くのは卑怯な手だ」とか「仕事は最低限でしたいから頑張りを強要されるような感覚がして息苦しい」とかは、私が私に厳しいことや許さないことから来る考えだと感じました。自分に優しくないから、心から人にも優しくすることができない。自分に厳しいから人にも厳しいし、誰彼構わず厳しいからこそ弱った自分にも容赦なく厳しい。「自分の基準を相手に押し付けるな」って至る所で思ってきたのに、自分も自分への厳しさを周りに押し付けてしまっていること、それによって自分自身も苦しくなっていることに改めて気づきました。

こうやって先輩の言葉を文字にして読み直してみると、本当にありがたいことでしかなくて、その場だけでなく帰ってからの私への思いやりもあって、今はその優しさとありがたさに涙が溢れてきました。うまく人と距離を取ったり休んだりできずに気を張り続け、定期的に動けなくなるような、これまでの誤った頑張り方・日々の過ごし方を変える必要があると強く感じた出来事でした。

 

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関連してですが、少々話は逸れます。

「何もしないをするができない」なんて悩みを綴った昨晩、なんだかどうしても行き詰まっている感じがあって、久しぶりにこけももさんのタロットたちの力を借りようと試聴。


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占いに翻弄されてるというわけではないけれど、初っ端から当たりすぎて(;_;)親しい人からはいつも一生懸命悩んだり考えたりしている&いつも大体同じことで悩んでいると思われてるとか、自分で自分を虐めると闇落ちするから自分の心・体を大事にすることが必要だとか、疲れてるからこそ原点回帰できる人や場所との関わりが大切だという気づきも。

そして何より、今すぐできること・アドバイスとして言われたことがすごく刺さりました。

「恋も片手間くらいでやらないと重くなる。本来あなたがエネルギーを向ける先はワーク。」

「しがみつかずにダメな時はさっさと退散、早く見切りをつけて素早く動く。常に動き続けなさい。そんな常に動き続ける自分を受け入れなさい。」

 

こけももさんの話を聞いて、私は「何もしないをする」ができなくても良いんだと思えましたし、寧ろ悩むところはそこじゃなかったんだと気づきました。何もしないができなくても良いから、エネルギーの向ける先を考え直す必要があると分かりました。

過去にも、「あなたはかなりのエネルギーを持ち合わせている」「止まることができず常に動き続ける」というようなことは何度か言われていました。「エネルギーを変な方向に向けてはいけない」「ブルドーザーになって破壊してはいけない」とか。

そこで思ったんです。私のエネルギーの向ける先はもう「自分」じゃないんじゃないかと。エネルギーを向けすぎてもう逆効果になり始めてるんじゃないかと。

 

高校から大学までの7年間は理想的な教員になることばかりに力を入れて、自分のことや交友関係も疎かにし、結果心と体を壊しました。

適応障害を経験してからは、もう同じ過ちは繰り返すまいと、向き合い方も分からなかった、大切にしてこなかった自分と試行錯誤しながら向き合ってきました。それももう6年になり、やり過ぎに突入しかけているかもしれません。

自分を大切にしようと自分のことに集中するのは良いけれど、現状として集中しすぎてまた過敏・ストイックになってきていて、結局自分自身を苦しくさせてしまっている元も子もない状態になってて。必要以上に自分を責めたり追い詰めたりすることも、結果自分にエネルギーを使うことになっていて。これがまさに「エネルギーの使い方を間違っている」状態そのものなんじゃないでしょうか。自分を大切にするという感覚をようやく掴み始めたので、それを忘れず適度に日常に取り入れていければ、これ以上もっともっと自分と向き合おうとしなくても良いんじゃないかというか。

勿論、全く考えなくなろうとかそういうつもりはないですし、寧ろこの習慣が染み付きすぎて全くしないという方が難しいと思います。でも、実家を出たことで生まれた余裕で自分の世話ができるようになったことを思えば、自分と向き合ってばかりの日常生活を変えることで生まれる余裕も相当なものなんじゃないかって思うんです。

自分のことにエネルギーを向けないっていうのは自分に無関心になるということでもないし、イコール自分を大切にしなくなるというわけでもなくて、必要な時は否が応でも自分と向き合わなきゃいけなくなるわけですし、自分を大切にする方法・感覚を掴めたらそれに磨きをかければ良いだけで、それ以上にもっと何かできるように極めようとしなくて良いというか。なんでも極めようとする性格が仇になっちゃっているかもしれない😓

「しがみつかず、早く見切りをつけて立ち去る、動く」っていうのは過去のことにも言えることだと感じていて、事情も事情なので一気に吹っ切れるっていうのは難しいとは思うのですが、自分の気持ちを断ち切ることはせず大事にした上で過去から自分を断ち切るというイメージは必要だと思いました。

 

「エネルギーをライスワーク(生きるためのワーク)とライフワーク(自分の生活を豊かにするためのワーク)の両方に向ける」「自分のやってみたいことや興味のあることをやってみると良い」

興味のあることや楽しいことにもっと取り組むことを考えたら、なんだか未来が明るく感じられました。前にも似た感じのアドバイスを貰っていましたし、同じ話を何度かしてるかもしれないんですけどね(´∀`; )これからエネルギーを向ける先を、自分より仕事と趣味に向けていきたいです。

エネルギーの使い方については今までも散々悩んできましたが、「向ける先」というのがより具体的でとても分かりやすかったです。いつもタイムリーに必要な助言をくれて、本当にありがたい(;ω;)これからも行き詰まった時はタロットたちに助けてもらいたいです🔮🐈‍⬛

 

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たとえ同じ段階のままであることはなかったとしても、「自分を大切にしたい」といつまでもそれに固執し続けているのも、ある意味でそこで成長が止まってしまっているんじゃないか、その状態から抜け出して次の段階に行くのが本当の成長なんじゃないかとも思うんです。(無論、ある程度自分を大事にできるようになってからの話です。)

お友達🐈や気になっていた人の時と同様に、昨日今日の出来事をただ泣いてそのまま変われずに、これ以降も人に気を遣わせて甘え続けるのは違うと感じていて。全く知らない世界に足を踏み出そうとしているので不安はありますが、今日の一件があったからこそより強く意志をもって踏み出せる、この出来事は私が気持ちを切り替えるためにあったんだと思えます。人を苦しめるのも人なのに、変わる機会をくれるのも人だから複雑だな💭

 

帰宅後、温かいよもぎ茶を飲んでホッとすることができました。最近自分だめモードになってきて、プラスなことも入ってこない以前のような状態になってきていたので、少しでも油断するとこうやって以前の自分虐めの思考が自分を戻そうとしてくるんだなと感じました。前の状態にギリギリ脳を変えられるような感覚。良い方向に行くのは大変なのに、悪い方へ行こうとするのは本当に容易で憎いな。

今後数日間で一気に変われなかったとしても、変わることを諦めないで何度も足を踏み入れたいです。先輩の気遣いを無駄にせず、今日の申し訳なさ・悔しさ・ありがたさを変わる勇気に変えて、明日から元気に出勤したいと思います✊🌿🌳

心を支えてくれる方からの贈り物🍩と温かいよもぎ茶🌿

 

何もしないをする

「何もしないをする」ができない。

つまりは、何もしないで好きなように過ごす、休むことに徹するということができないのです。

どんなに疲れていても、やらなきゃいけないことが終わってないことの方が気になって、それを遂行させることに集中してしまうというか。休み下手は本当に長年の悩み。

そんなことを綴っていた昨夜、ついに自分の疲労バロメーターの最終段階:頭痛がやってきました。大学時代の経験上、この頭痛を超えると嘔吐して数日間動けなくなるんです。幸い嘔吐前に休むことができましたが、忙しい年度末に仕事を休む羽目になってしまいました。ここで自分虐め&追い込みモードに入ってきているので良くない(~_~;)

ここ数日疲れすぎて料理ができなかったので、昨日もまた1日しかない休みで料理・溜まった食器の片付けかたをして終わり。「今日は休憩なしで動き続けないよう自分でストップをかけられたし、ハーブティーを飲んで『ホッとする時間』や仮眠も自分から取り入れられたな〜今日は結構休めたんじゃないかな〜〜♪」なんて思ってたんですが、認識が甘かったようです😭

 


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大好き現リカちゃんシリーズ。これに憧れるレベルなんですけど、かといってこれになりたいわけでもなくて。でも見習う価値は大いにあるというか。

実際、大学2・3年生くらいまで何もない休日はこんな感じでした(大学4年生時には最早休み方がわからなくなっていた)。でも適応障害発症後、社会人になって自分で生活していく上で価値観もどんどん上書きされていって、ダラダラ過ごしてやることが終わらず溜まっていくと同時に心も廃れていくことが分かったので、完璧ではないもののあまり放置もしないようになっていました。

それは良いけど、こうやって書いてみると、1日何もしなかっただけでどれだけ自分の首が絞まると思ってるんだろう。。。実際1日くらいだったらそんなに変わりないし、寧ろ切り替えて1日しっかり休む方が効率的なんだろうな。やらないことが自分の苦しみに即効直結すると考えすぎてるっていうか、やらない=悪みたいになってるというか何というか。

まあでも、「何もしないができないのが良くない」っていう悩みも両極端な発想だよなと気づいた昨日。疲れすぎているのに休むことに徹せないというのは問題ですが、大人になると1日中何もしないっていうのはどんどん難しくなりますよね。私は独り身だからまだ良いけど、これが人と暮らしてたら更に難しくなるわけで、そうすると如何に休憩・休息を適度に取り入れながら日常生活を営み続けるかがとても大事になってくるというか…大人の生活って厳しいな〜〜〜

 

自分の生活を豊かにすることに目がいきすぎて、やはり自分の体調には全く意識が向いていなかったことに気づきました。これじゃあ元も子もないよね。ほんとなんて白黒思考なんだろう(;´д`Ⅲ)

いつも体が動かなくなってからしか気づけないのも本当に問題。というか、自分の不調になかなか気づけないのに「ずっと疲れが取れない」と認識できてる時点で、実は結構、いやかなり疲れてたんじゃないかな…😨頭痛・腹痛に苦しみながらベッドに潜っていた時、①の自分が私に背を向けて隅で丸くなっているのがイメージできて、私はまた自分で気づかずに自分を追い込んでしまっていたんだと思いました。体のサインを見逃さないことも大切ですが、サインとして出る前に自分の心と体の本当の声に耳ならぬ心を澄ませるという習慣が必要だと強く感じました。Don‘t Think.Feelとはまさにこのことだ😇

 

自分自身に対してもこんな状態なのに、家族を救わなきゃとか誰かの役に立たなきゃとか人のことに悩んでる時点でほんとにズレてますよね。これがズレてるって気づくのに一体何年かかってるんだろう。しかも気づいてもその習慣から本当に抜け出すのにも何年もかかる…/(^o^)\

ここ数日で、「大体の人はあなたほど深刻に考えない」「あなたはいつも何事にも立ち止まって考えて進んでいくからすごい」と言われることがあって、その状態が通常運転なのだからやはりエネルギーの消耗も激しいよなと改めて思いました。その一方で、今月定年退職のお世話になった上司から頂いた「いつも気遣ってくれてありがとう」の言葉にすごく救われた気持ちになったりもして。感謝されたいとかではなく他人軸からなかなか抜け出せてないからいつも他人以上に人に気を遣ってしまっているものの、それに対して感謝を述べられることってなかなか無いし、寧ろその気遣いに気づかれないことすらあるから、こうやって言葉で頂いたことが本当に嬉しくて。

自分を苦しませるほどの考えすぎ・気遣いすぎの過剰さはなくて良いけど、人を気遣う姿勢はこれからも持ち続けたいと思わされる機会も最近ちょこちょこありまして。自分にとってもう少し良い塩梅を見つけていけたら良いな。

明日から新年度。体調は悪いですが、休息を取ることを覚えて新年度前向きに過ごせたらと思います🌱🌸

 

負の感情の塊

今日は珍しく日常系の内容だけになりそうだったのに、家族のせいで見事に不快感爆裂で、今日は思考の整理というよりも感情の整理な投稿。

かなり疲れて気持ち悪いし唇の皮はむしりまくったしなので、可能な限り短い時間でまとめたい。

 

気分を上げるために良いことから書く。

今日も1日のみの休みを1日中動き回って終わってしまったんですが、見たかった映画を見ることができたので、とても気分転換になったのでした。(のちに実家の不快感で一撃)


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おやすみプンプン」を読んでから、作者の浅野いにおさんがすごく気になるようになって、その気持ちの派生で気になっていた作品でした。

おやすみプンプンは映画化されたら嬉しいけど、正直見てられないと思うのでしなくて良いです笑 プンプンを見ていると、私もあの家庭から出ず心を凍らせたまま自分を大切にできないままでいたら、形は違ってもプンプンみたいな闇落ちルートもあったんだろうなと思うんです。フィクション作品だけど、本当にこの世にあっておかしくない内容だと思ってます。

話はデデデデ映画に戻り。結論、最高でした。もう一回見たいくらい( ;∀;)そして、あのちゃんの声優・歌唱の才能に感動した時間でした。原作の漫画には手を出せずにいたので、何も情報がない状態で見られたのもワクワク感あって良かったです。そもそも主題歌がずっと好きなアーティストさん作曲だったから見るのを決意したってのも大きいんですが、映画館のあの音量でエンディングが聞けたのも本当に良かったです。作品にも音楽にもかなり心動かされて、久しぶりに良い心の動きを感じました。やっぱりこういうプラスな感情の動きってとても大事だな。

とにかく、CV.あのちゃんおんたんが可愛くて可愛くて…🙏あと、おんたん兄に惚れそうになりましたね。諏訪部ボイスにより余計イケメンに感じられた…二次元キャラに恋しそうになったのも久々でした笑

朝から吐き気して疲労感満載だったけど、年度初めは業務多忙でそれどころじゃなくなりそうだったので見に行って良かったです。

 

そして次に良くないこと、実家の不快感について。わざわざ記事に起こす必要はないと思われるかもしれませんが、自分の中でようやく諦めの境地に足を踏み入れられそうなので吐き出しておきます。

疲労感満載にもかかわらず、半日でも妹と一緒にいたこと。まずこの選択自体が良くありませんでした。妹についてはインスタ闘病アカウント時代に記録漫画でも数回取り上げたことがありましたが、とにかく口うるさいというか人の癪に触るような話し方ばかりするやつで。同じ家庭環境に悩まされていても私とはタイプが異なり、本人曰く「今まで言いたいことも好きに言えなかったから今は吐き出すようにしている」とのことで、今は妹が両親や祖母のストレスになっているようでした。妹は同級生からいじめられた経験もあるので特に難儀かもしれませんが、私から言わせると、自分の感情を表に出すことは良いことだけどそれは身勝手に言いたいように言って発散して良いってことにはならないというか、あの家庭であろうがなかろうが、他者と暮らす以上は言い方を考えたり、相手本人に言わないで自分で別の場所で発散するとかの対処は必要だと思います。でも本人はまだそれが分からずに、何年も母親と不毛な口論を続けています。妹にも、家族に理解してほしいという期待があるからこその言動なのかもしれません。そうであったとしても、そんな妹と長時間一緒に過ごすのは気持ちがどっと疲れるようでした。

そして帰宅後はまたジムへ外出。運動して多少気持ちが軽くなった後、実家に戻り夕飯を食べることにしていたんですが、そこでまた母親と妹のどっちにも原因がある不毛な闘い。「否定されるから自由に自分の気持ちを言うことができない」「母が過干渉」という妹の置かれている状況・問題の原因も分かるし、「妹は何に対しても大袈裟で細々と文句を言ってくる」「自己主張するわりに実行能力がなく抜けている」という母側の状況も分かるんです。

私が実家にいる時はいつもこうやって誰かと誰かの間に挟まれてビリビリした空気の中で精神を磨耗するような状態で、それが嫌だと主張しても私が勝手につらくなってるだけ扱いで決してそれが変わることなんてなくて。一人暮らしを始めてそれから解放されたことで自分の世話をできる余力ができたことに感動したりしてね。

実家はまず父親が同じ空間にいるだけでかなり不快なんですが、それに加え今日は妹と母親の不毛な闘いエンドレス。そんな中で必ず食卓は一緒に囲まなきゃいけないってのがいつもいつも本当に苦痛で、気持ち悪いそのもので。今日はそこにいるのがとても不快で息がハカハカしてきて、夕飯を一緒に食べずに帰りました。今はこうやって一人暮らしをして自分を大切にしようとした生活を送っているので、余計にあの家への耐性がなくなってきているというか、今の状態であの家に戻ったら過呼吸を起こしてもおかしくないと思いました。これが本来正常なんでしょうね。というか、もしかして世間一般的にというか大部分の人は、ここまで実家のことに囚われ続けることもないんじゃないでしょうか。

いつも実家に行くたびに高確率で不快になるのに、用ができたりなんだりで行く機会がそれなりに増えていて、やっぱり実家には余程のことがない限り帰らないというのが吉なんだと改めて思いました。そのためにはやはり、実家に頼らないで自分の力で生きる技術・能力が必要になってくるんだろうな。何度も不快になってるのになんで行くのって思われてもおかしくないんだけど、それでも今もまだ自分自身家庭への夢を捨てきれていないところがあるからなんじゃないかと思いますし、加えて最近はなんだか祖母の命が残り長くないんじゃないかという感覚もあって、悔いがないよう会っておきたいという理由もあったんです。

アダルトチルドレンってのはこうやって、自分の家庭が良い家庭ではなかったと認めるのが難しくて、諦めきれずに何度もぐるぐる同じようなことを繰り返して悩み苦しみ続けるものなのかな。きっとその中で苦しみ続けながら中年や高齢者になって生涯を終えていく人もいるのかもしれないと考えると、私は良い加減ここらへんでそこから脱したいと思いました。これも自分で自分を大切にできるようになってきたからこそ思える&行動に移せることだよなあ。その環境下にいたままだったら、認知の歪みを改善するどころか正しく自分を客観視することすらできなかったと思います。

母親を許すとか許さないとか、今はもうそういう話じゃないと思えてきたというか。母親も父親も祖母もみんな、私より何回りも長く生きてきているのに変わることができないまま、今になってもこうやって各々が好きなように主張して、私の苦しむ気持ちに寄り添う姿勢もないわけで、この事実が全てを物語っているというか。見違えるほど大きく変わってくれとかそういうわけじゃなくてね。ここまで来てそれができないなら、年老いてもっと凝り固まっていくこれからなんてもっと無理だろうというか。だから、幸せに生きたいと前向きに一生懸命頑張っている自分が、いつまでもそんな家庭に悩み苦しみ続ける必要はもうなくて自分の人生を歩んで良いんじゃないかって。

同じような不快感を何年も繰り返してきて、今ようやく「諦める」という境地が見えてきました。自分のインナーチャイルドを思いやると、そりゃあ自分の家庭は素敵な家庭だって思いたいから認めたくないし、そうあってほしいって期待し続けちゃうよねという考えが浮かびました。自分の閉じ込めてた気持ちをようやく思いやることができて、これもまた自分のことながら泣けてきます😢自分の家族に対して望みを捨てるってことだから、今までのやり方だとまた心を閉ざしてしまうやり方になってしまうので、それとは違う形で自分を大事にしながら手放していけたらと思います。ここで他者に依存するのはメンヘラになっちゃうけど、大事な人の支えも貰いながら満たせていけたらいいのかな。

ただ妹には、必要だと思うことは言いたくなくても言うようにしていきたいです。だって、言ってくれる人がどんどんいなくなってってやばい大人が出来上がってるのも実際に目にしてきたから。本人自身の問題もあるけど、伝えなきゃいけないことは伝えなきゃと思う。これは教育者の思考強め😅

 

結果、良いこと2:悪いこと8くらいの比率になりました👼本当は気分転換もできたし、最近健康のためにやめたことや始めたことをまとめようなんて楽しみに考えていたんですが、予定外の内容。実家の負を通り越して劣悪パワー、恐るべし。疲れてるから余計にダメージ大きいところもあったかもしれませんが、「家族のことはもう諦める」という次のステージが見えてきたので、ある意味良かったかもしれません。

時間も30分でまとめようと思ったのに、睡眠時間削って2時間もかかった😭適応障害時代もそうでしたが、疲れすぎるとハイになったまま夜も熟睡できず疲れが取れないという悪循環に陥るので、やっぱり頑張りすぎは良くないね。無理せず自分に鞭打ちせず優しく過ごそう🛏️

短いけど記録

今日はブログ開設以来、初(?)の短め投稿です!🙌

気軽に小まめに吐き出したいって言い続け、ここまで来るのに一体何ヶ月かかってんだろう笑

 

昨日の1日しかない休みを家事に費やし、今日からまた仕事。

退勤後にジムに行く予定でいたのですが、夕方になるにつれて腹の調子が悪くなり、割と強めの腹痛。倦怠感の他に、喉の奥がつかえる感じもありました。

少し前までの自分だったら、この「疲れてるよ〜」と体が教えてくれているサインも丸っ切り無視して、無理してまで予定通りジムで体を動かしましたね…

体が教えてくれているサインの大切さに気づけたのも割とつい最近です😅

tane-plants.hatenablog.com

「予定通りジムに行った方が良かったんじゃないか」「行かなかったのは逆効果だったんじゃないか」とか不安がってる②の自分もいましたが、そこをぐっと堪えてジムに行かずに家で休むという選択を取ることができました。するとなんだか、すごい達成感というか自信につながる感じがありました。多分これは、ちゃんと自分の声を聞けたっていうことから来ている自信なんだと感じました。

昨日、「今は自分の本当の気持ちが分からないと悩むことは無い」と書きましたが、悩むことがなくてもそれ以前にまず自分の本当の声に気づかないということも往々にしてあるので、ちょっとした違和感やサインにもっと敏感になっていきたいと思います。そしてそれらに対して都度適切に対処することで、もっと自分の自信につながっていくような気がします💡

今日は自分を大切にする選択も取れたし、ながら食べもせずアニメ鑑賞も家事もそれぞれ別々にできたので、それも達成感だったのでした。

 

短め投稿にするはずだったのに、結局深掘りし始めたら長くなってきてしまった💦しかも、心地良いシンプルな達成感だったのに、「良い成果だったから記録しておきたい!」と意気込んで考察しながらまとめたら逆に重苦しくなってきて、最早気軽さもない😇笑

書き始めたら止まらなくなりかけてますが、また髪や唇をいじり始めたのでやっぱりこの考察・記録の仕方は良くないかもしれない(⌒-⌒; )自分が納得する文章でアウトプットして再度咀嚼したいっていうのが根強いんだけど、堅苦しく自分と長時間向き合い続けるのはやはりストレスになるので難しいところ。自分と向き合う度合いはかなり軽減されたと思っていましたが、まだまだ軽くしていって良さそうです。気軽さ持ち合わせたい✊

なんてことなし

特段テーマがある訳でもないですが、またぐるぐる色んなことを考えていたので頭のお掃除投稿。読みやすさへの配慮はありません🙇‍♀️💧

 

前回も変わることに関する投稿をしました。あれから一気に変われるとかそういう話はないですが、やっぱり自分の中にいる①と③(過去記事参照)的な自分が、「変わっても良いよ、大丈夫だよ」「だってこれからは何か起こっても、私が私をちゃんと守ってくれるから」と自分に許可を出してくれているような感覚がずっとあって、それがすごく頼もしいというかずっしりした安心感というか、とにかく安心して変わっていける気持ちになれているんです。愛着障害のない人たちってこういう安心感が普通にあるもんなのかな?以前に友人とも話しましたが、この安心感が物心つく前に人から与えられて作られたものか、人に支えられながらも自ら作り上げたものかで、壊れやすさは全く異なるんでしょうね。今までは本当にしんどかったけど、ようやくそれが作り上げられてきて本当に幸せです(;ω;)

まだ「変わって良い」と自分に許可を出せた段階でしかありませんが、何にしても、自分自身を蔑ろにして自己卑下・否定ばかりして、自分の本心も分からないほど凝り固まっていたこれまでとは見違える変化です。最初は何年も自分の気持ちが分からなくて試行錯誤ばかりだったけど、その甲斐もあって今は自分の気持ちがちゃんと分かる!!というか自分の気持ちが分からないと悩むことがない。できなくても分からなくても、まずは形からで試行錯誤を続けるって本当大事なんですね。

やっぱり何事も上手くやっていくには、「自分を愛すること」から始まるんだなと最近しみじみと思わされます。「汝、隣人を愛せよ」の前にまずは「汝、自分を愛せよ」というか。これができてないと、人によって種類は違えど、ありとあらゆる方面で躓いたり拗らせたりしちゃってる気がします(人間関係や私生活、変われる柔軟性など)。でも、それが分かるまでもかなり難しいってことも分かる😭他者に傷つけられたり搾取されたりすることが多く起こっているこの世の中で、「愛」から得られる心強さ、温かさ、幸福感、その素晴らしさを知ることができる人生が送れたなら、それほど満足できる人生は人間界にはもう無い気がします。直感的な話ですが、数日前、自分は今後の人生でそれを知ることができるような気がして、これからの人生がまた楽しみになりました(*´︶`*)数年前までは悲観ばかりして毎日死にたいと思ってたのにね。本当に嬉しい。

先日、闘病垢時代からのフォロワーさんとお話ししていて、「過去のことはこれから先もいつ振り返っても嫌な気持ちにしかならないと思うから、自分の気持ちも大切にできるようになってきたこれからは、過去との付き合い方も自分が楽になれる最適な方法を見つけていけたら良い」という旨の返信をしました。この言葉は特に考えていたわけでもなかったので、自分からそんな言葉が自然とすらすら出てきたのにも我ながら驚きでした。しかも、これまで試行錯誤を続けてきた自分自身にとっても「最適な方法を見つけて行う」という考え方がすごくしっくりきて、さらに自分が変わることを後押ししてくれる結果となりました。連日の自給自足(笑)いつもひたすら考察して結論を見出すような生活を送っていますが、自分の価値観や結論を無意識に任せるのも良いかもしれませんね🌳

 

今の賃貸、不具合に対処するごとにどんどん快適さを増していくのですが、賃貸特有の匂いの他に、疲れた人の匂いがずっと無くならなくて😇あまりにも無くならないので、これはもしかして自分から発せられてるんじゃないかと危機感を募らせています😨自分の疲労バロメーターである口内環境が荒れ始めて出血祭りなので、ほんとに疲れが溜まっている…

そして疲れが全然取れてないのに、今日も1日しかない休みを家事に費やしてしまった…_(:3 」∠)_昨日、中学時代からのネットのお友達と久々に電話をした時に、好きなことに沢山取り組んで生き生きした私生活の話を聞いて、私の生活にはホッと一息つく時間だけでなく現実を忘れて好きなことに没頭する時間も無かったこと、現実逃避どころか現実ばかり見過ぎた生活を送っていることに気づかされました。漫画は隙間時間にさっと読むだけですし、アニメ鑑賞はまた食事の際の「ながら作業」になってしまっていて、しかもどちらも自分の私生活や価値観と繋げながら見ていて。ブログも趣味というより自分の息苦しさの吐き出し口ですし、好きなフラワーアレンジメントも2ヶ月に1回くらいの頻度のままで。行動のメリハリ、時間の使い方、価値観について再度見直し、もっと自分の私生活に好きなことに没頭したりリラックスしたりする時間を取り入れていきたいです💪

 


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成長したどれみたちが尊くて初見で泣きました。感受性が余計に強くなっているので本当に疲れてる…😇(n回目)仕事の日は仕事だけで終わり、休日を家事に費やしてしまっているので、休日は何もしないで好きなことをやる日にできるように、何とかシフトチェンジしていきたいです…(´ω`)

持っている

 

クォーターライフクライシスとは、20代後半から30代が陥りがちな幸福の低迷期のことである。社会に出て生活に慣れてきた一方で理想と現実のギャップに違和感を感じたり、同年代や周囲の人と自分を比べて落ち込んだり、自分らしさを見失って自身はどう生きていくべきなのかさえ分からなくなる混乱したりする状態だ。

https://www.profuture.co.jp/mk/recruit/management/39512

 

20代以上の皆さんは経験ありますか?

私は今まさにこの状態なんじゃないかと悩んでいます。

 

以前の記事にも挙げたように、30代を目前にして様々思い悩んでしまっていて。

「他人と自分を比べる」とか「自分らしさを見失う」とかは寧ろ逆で、今までひたすらそれに苦しんできた分、最近ようやく自分らしさ的なものが分かってきたり自信を少しずつもてるようになってきています。

私が悩んでるのは、「このままではいけない」っていう強めな焦燥感でして。この焦燥感は、これまでの常に自分の課題を見つけて改善しようとしてきた病的なものとは感覚がちょっと違くて、歳を重ねることによる必然的なものな気がします。若かった頃のように無理のきく体ではなくなりすぐに身体に表れるようになってきて、でも年齢を重ねることで自分に求められるものも格段に増えてきて、これまでの精神状態でそれに適応していくことにもかなり努力が必要で。

そこで必要になってくるのが、過去とこれまでの自分を捨てることだと感じています。過去のトラウマに苦しみ続けたり、常に周りにアンテナを張って気遣ったりしてエネルギーを使ってしまっているようなこれまでの生き方であり続けると、年齢の変化に適応しながら新しいものを取り入れていく容量が確実に無くなります。というかもう無くなりかけていっぱいいっぱい、オーバーヒート状態になってきています(~_~;)

これまで「手放す」というテーマで何度か投稿してきましたが、今回の場合は「手放す」という優しい感じではなく、「自分で納得した上で思い切って捨てる」というくらいの強い意志が必要な気がします。これまで自分の中の大きな部分を占めてきた「過去」ですが、これからはつらいことがあっても自分が自分を守ってくれるんだという確固な安心感があると、過去に縛られ苦しみ続けている今の状態が、最早「あえて自ら(過去による生きにくさを)持っている」という見方が生まれてきて、これがさらに腑に落ちました。上手く言えないんですけど…過去による生きにくさに悩まされ続けてきたはずなのに、今や自分から選んでその過去の苦しみを持ち続けているというか、つまりはもう苦しまなくても良いのに自ら進んで苦しみに行ってしまっていると気づいたというか。この習慣がなくなるだけで、新しいものを取り入れるための大きな余裕が生まれるはずです。

この思考の変化は、インナーチャイルドが今の自分に心を開き始めた大きな証拠だと思います。以前は自分を大切にできず、インナーチャイルドも癒されないまま心閉ざしてしまっていたからこそ余計に過去に囚われてしまっていて、インナーチャイルドの努力を認めながら「手放す」という優しい方法でないと変わっていけなかったのかもしれません。縋る先もなく癒されなかったら、過去に囚われ続けちゃうのはそりゃあ仕方ないことだよね😢しかし今では、自分が自分を守ってくれると分かったからこそ、こうやって「捨てる」という強い決断ができるのだと思います。内なる子供の自分も、それを守ろうとできるようになってきた自分も、なんて頼もしいんでしょうか(;_;)性的虐待による嫌悪感とかは向き合うのもまだかなりきつくて目を逸らしているような状態なので、自分の中で納得できるまでにはかなり時間かかるとは思います。他にもまだ癒しきれずに次のステージに行こうとしていることへの怖さはありますが、これから先も必要な時には都度癒してあげられればきっと良いんですよね。一気に変われなくても良い、これまでの自分とは違う自分になってしまったとしても、それはその時の最善の自分であり私自身だから、変わることを怖く思わなくても大丈夫なんだ。

 

キモがられてもしょうがないけど、自分で綴ったはずの言葉が強く優しくて自分自身泣けてきました👼自給自足みたいになってる笑

気になっていた人に対する気持ちはもう無いけれど、その人との出会いや経験、大切な人たちとの関わりや支えという去年があったからこそ、自分を愛せない自分からここまで大きく変わることができたなぁと改めて感謝する気持ちになりました。忘れちゃいけないなこれは。

何回も言いますが、無理のきかない体になったことも無理しがちな自分にとっては本当にありがたい変化です( ´ ▽ ` )

 

 

話は変わって日常のこと。

今更ですが、本日のトップは先日友人に連れて行ってもらったアフタヌーンティーの写真でした🫖🍰自分でカップを選んで、そのカップに合わせたお皿やポット、カバーを用意してくださって、とことんこだわりを感じる素敵なお店でした。好きなものを極めるって本当にすごいことだし素敵だなと感嘆。好奇心旺盛な私には一つの分野をとことん突き詰めるってことができない😅

私の日常にはこうやってお菓子を食べお茶を飲みながら一服するなんて習慣が微塵もないので、紅茶やティーカップが大好きな友達のことを思い浮かべながら、こんな優雅なものが好きだなんて自分とは見えているもの・感じていることもそりゃあ違うんだろうなとか思ったり。自分の私生活を見直したいと思わされた時間でした。一方で、この休み方は私には合わないなとも思うこともできて(前までの自分だったら、こんな素敵な空間に癒されることができない自分を責めてました)。素敵な食器たちだけでも既に大感動なのに、良い香りのする温かい紅茶に可愛くて美味しいケーキ。これらが目の前に一斉にあるだけで情報量が多くて気疲れしちゃうという…_(:3 」∠)_やはり自分にはシンプルなのが合っているんだなと感じました。ただ、カップを選ぶ時にとっても可愛いピンクのカップがあったのですが、自分らしくないと選ぶのをやめてしまったことはちょっと後悔。こういうところからどんどん抜け出していきたい✊

 

新住居、入居開始から不具合が多くあるものの、開放感がありとても快適です( ;∀;)🏡スピ的な話になりますが、この賃貸自体が私に「気を張らなくて大丈夫だよ」「安心して過ごしていいよ」と言ってくれている気がするなんとも不思議な感覚で。いつもある「誰か隠れているかもしれない」「襲われるかもしれない」という強迫観念がこの部屋の中だと薄くなるんです(火事への心配はまだありますが😇)。これまでの賃貸にそんな安心感はなかったですし、なんなら先月まで住んでいたところはよく誰かに見られているような感覚になる部屋でした。温かい今日は窓を開け、春なりかけの空気をたくさん取り入れながら散らかった部屋を整理整頓。このお部屋で素敵な休日を過ごせて幸せです☺️🍀

 

こうやってブログに言葉として吐き出し、読み直して改めて咀嚼することで、自分自身が浄化され気持ちを切り替えて次に行ける感覚がします。いつも気持ちを切り替えさせてくれるブログって本当にすごいなあ。

今回の投稿も数時間かけて前半と後半で2記事に分けられるくらいの分量になってしまいました…小まめな吐き出しが引き続き目標です。自分の中で納得できるまで考えを巡らせてしまうので、小出しの習慣難しい(´`; )

少しずつ変わっていく私をまた綴っていけたら良いなと思います☺️🌱

疲弊

お久しぶりの更新。

母と妹の助けもあって、先日無事引っ越しが終わりました📦

ここ最近は特にメンタル面の状態が良くなく、今日は脳内のごちゃごちゃを吐き出し。以前のキラキラは皆無、今日の記事は暗めです。

 

昨年末の疲れを持ち越し、2月初めに引っ越しを決めてからはそのことで頭がいっぱいになって更に余裕がなくなり、そして休日はろくに休憩もせずに引っ越し。何もしないで休めているのが、おそらく数ヶ月ぶりです。とは言っても、今日も業者対応や少し残った片付けもしてしまっているので、「何もしない」を徹底することがなかなかできないでいます😇

適応障害を発症する前から休み下手の自覚はありましたが、悩ましいほど休むのが下手くそで。振り返れば、休み下手なのは高校時代から始まっていたかもしれません。高校時代は休みの日も課題や予習に追われ、大学時代は課題の他に課外活動を詰め込み…。というか、ここまでくると最早どのくらいが頑張りすぎでどのくらいが怠惰になるのか程度が分からないというか。アラサーになって身体の衰えを感じ、倦怠感に悩まされている今、この休み下手がかなりネックになっています。思えば、若い頃の大量にあったエネルギーや回復力もそういうところばかりに使い果たして、遊ぶとか社会を学ぶとか、そういうもっと大事なところに使えるはずだったエネルギーも使い果たしていたかもしれません。そう思うと、世の中の成功者たちの大半は家庭環境に悩んだり家庭問題で無駄にエネルギーを消費したりせず物事に取り組むことができた人たちなんじゃないかなとか想像したり。

 

これに関連して。引っ越しが終わったつい先日、ふと母への認識が変わったことがあって。

私の家族は、特に祖母と私が休みなくしょっちゅう動き回っていて、父親に関しては双極性障害を患いまともに休むことができない人間です。だから、そんな私や姑である祖母、父からすれば、言ったことがなかなか改善されなかったり、しょっちゅう休憩したりしている母が鈍臭く感じられて、すごく要領が悪い人間に写っていたんです。

でもふと、世間一般的な人たちって、もっと休憩する頻度や時間、手を抜くことも多いんじゃないかと思ったんです。現に、私は怠惰な方だと思っていた妹まで、周囲の人や心療内科からやりすぎだと言われているとのこと。妹とほぼ同じような母だって、母の実家に行けば親戚たちにすごく頑張っていると評価され続けていて、それを見た私はずっとはてなマークでしたが、結局それが私達の家庭の基準がおかしいことを物語っているというか。私が当たり前にしてきた基準は家庭環境から来ているものであって、そもそも一般的ではないことにようやく気づき始めたというか。

母の実家の家族関係は良好なので、母は両親によって悩まされず比較的健全に育ってきたはずなんです。私や妹は幼少期から今の家庭環境なので耐性はあります(耐性というか麻痺している上でもなお不調をきたしている)が、健全な家庭で育ってきた人が今の私の家庭のような環境にさらされたらどうなるでしょうか。自分の身の回りのことも全て母へ押し付け、少しでも気に障れば嫌味を言ったり怒りつけたりする高圧的な父、そしてその親であり誰よりも仕事をこなす気丈な女性である一方、自分の凝り固まった基準を人に押し付けがちな祖母。そんな2人がいる中で私と妹のほぼワンオペ育児。母の感覚はもう麻痺してしまっていますが、嫁であるという立場で、問題ばかりの父方の親族から受けてきたストレスはかなりのものだったと思います。

友人の家庭もそうですが、父親に問題がある家庭の場合、母親はその悪しき環境下でも適応するよう洗脳されたような状態になっている印象を受けます。そしてそのような母親たちは子供に過干渉になったり、場合によっては子供と母親の共依存状態になったりね。あーーー何回か目にしてきたなこれ_(:3 」∠)_ 母の場合も過干渉、子供自身の意欲の否定、価値観の押し付け等々。今までは母の置かれた環境やこれまでの背景なんてあまり理解しないできたので、父だけでなく母への嫌悪もあり、その感情を抱く自責の念との葛藤に苦しみ続けてきました。しかし、母の生い立ちから現在までその置かれてきた背景について、今ようやく少しずつ分かってくると、母が本当に不憫になってきて。種類は違えども、母も過去の私のように感覚が麻痺しているわけで、歳もとってきたことで余計に頑なになってきてしまっていて。このまま病気とか認知症とかになっちゃったら、母の人生はなんだったんだろうとか考えると涙が出てきて。

「嫌われる勇気」のアドラー心理学でも言ってたけど、親子であっても相手の問題に足を踏み入れるな、相手の課題は相手自身が解決することだってあったから、今の私の状態はよろしくないんだろうな。あのストレス下でどう対処するか決めて行動するのは母自身の問題だし、私が母の人生を勝手に可哀想だと決めつけるのも母にとっては失礼なことなんだろうな。

と、こんな感じで泣きつつ葛藤しながら記事におこしているくらいにはメンタル弱ってます。祖母は子供のために祖父と離婚しなかったと言っていましたが、私にとっては父と母が離婚しないでい続けられることの方が寧ろしんどいです。家族のことを考えると、父方の家族が早くいなくなってくれれば幸せになれるのにとかいつも冷え切った考えになる。「お父さんが早く死にますように。」って漫画を知った時には、そんな作品が世に出ていることに感動した反面、自分もざわざわしてきちゃって早々に読むのやめたな。私はここまでの状態ではなかったけど、そういう家庭があるのも事実なんだよね。

こんな冷え切った心の状態ででずっと生き続けてきたからこそ、昨夏亡くなったお友達🐈との出会いはかなり大きかったんです。そのお友達がいなくなって半年。前のような心理状態に戻りつつあるので、なんとか阻止したい。お友達との出会いを絶対無駄にしない。

 

今回の気づきも、「あたしンち」が結構影響しているんです。あたしンちの登場人物を見ていると、人間って完璧じゃないし完璧じゃなくても良いんだって改めて思わされて。ここ数年間で漫画に救われていることは結構ある気がします。昨日は「推しの子」で、カミキが児童性的加虐の被害に遭っていたのを見て自分も心の奥底からざわついたし、加害者も人から虐げられた過去があっても子供に手を出すのはやってはいけないことだっていう内容に少し救われたりもして。そういう経験をしている人たちってなかなか周りにいないし話し合えることもないからこそ、フィクションであっても作品に救われるのかもしれません。

 

暗い話を吐きたいだけ長々吐き出してしまいました。ここまで読んでくださった方がいたら本当にありがたすぎる( ;;)

休み下手同様に、最近強迫観念的なものが強くてほとほと疲れてきてて_(:3 」∠)_「家の中に誰かいるかもしれない」「誰かこっちを見ているかもしれない」っていうのは幼少期からずっとあるのですが、ここ1ヶ月は「自分の家が火事になるかもしれない」「引っ越した先で殺されることになるかもしれない」っていうのが強くて余計に心休まらなくて。最近はこの強迫観念的なものにかなり悩んでいます。この話はまた次の機会に。

今日の内容を見て共感したり、自分の話もしてみたいと思ったりしてくれる人がいたら、本当に嬉しいです。