種をまく日々

生き下手人間の奔走する日常

調和

 

3年ほど前、自分を大切にするという感覚が全く分からず試行錯誤していた時、この感覚を掴むイメージとして初めて浮かんだのが「慈愛」という言葉でした。赤ちゃんを扱うように自分を大切にする。「慈愛」という言葉からはそんなイメージがもてました。

そして、自分を大切にする感覚を掴み始めた今、改めてイメージを言葉にするなら「調和」だと思いました。「バランス」と言っても良いんですけど、自分を虐めたり過剰に頑張らせようとしたりする自分の弱さを、否定ではなく理解しつつ、その上で自分を大切にする行動を選び実践するというか。どっちにも偏らず、でも自分の弱さには流されずに、自分の声を聞き逃さないで確実に汲み取るというか。うまく表現できませんが…

弱さに打ち勝つっていうのも、勝つか負けるかの一種の白黒思考に感じられます。インナーチャイルドが被った鉄の甲冑を悪いものと決めつけて排除しようとした時と同じです。弱さを悪者と決めつけて否定・拒絶するんじゃなくて、それも自分自身から生まれた、この自分だからこそ生まれた自分なりの弱さであって、それを否定・拒絶することは結果的に自分自身を認められていない・否定していることになってしまっているというか、弱さは弱さとして克服して良いものだけど、それを否定・拒絶して切り捨てようとするものではないというか。弱さも自分から生まれた大切な気持ち・反応・事象として理解し受け入れてあげた上で、徐々に良い方向へ変わっていけたら良いんじゃないかっていう感覚になったんです。これブログ記事にしたからこうやって言葉にできたけど、記事にしなければ「自分を大切にするって『調和』なんだな〜」くらいの感覚でしかなかったから、記事にした効果を今すごく実感しています(°_°)笑

きっとこういう類の話も、ピンとこないから残らなかっただけで今まで何度も目や耳にしてきたんだろうな。「自分の弱さを認める」「自分の弱さも自分の一部」ってよく聞くフレーズですけど、これも経験がないと言葉だけでは到底分からない感覚だなと思います。言葉で表現すると確かにこうとしか言えないと思うんですけど、これらが含んでる意味合いというかスケールが大きすぎる。でも、このフレーズの意味合いを自分なりに理解できた気がするので嬉しいです☺️

 

 

これまでの二十数年間、自分の疲れを無視し続けて生きてきました。疲れて動けなくなっても自分を慈しむ気持ちはなく、動けるようになったらまた過剰に頑張ってまた動けなくなる。これは心と体どちらにも言えることです。

最近は「疲れを癒すこと」、これだけを課題にして生活していました。うまくいかないことも多いんですが、自分で「これ以上やっちゃだめ」とギッと止めて休めた時に割と多め?の疲労感が溢れ出てきて、自分の中から「やっと気づいてくれたんだね」と言う声がした感覚になりました。

適応障害を患い、初めて自分から「休みたい」と言えた翌日から熱が急上昇し動けなくなった教員時代の経験を思うと、今回も当時と同様、安心して疲れが出てきたのだと思いました。仕事もプライベートも何でも「あれもしなきゃ、これもしなきゃ」で、自分が思う以上に常に神経が張り詰めていたのかもしれません。ようやく休んで良いと分かって安心すると一気に体調に出るタイプなんて、今までどれだけ過酷な扱われ方をされてきたんだろうと自分の体ながら不憫に思えてきました😢

今までも何度か自分の体(自分の精神面に付き合わされる身体面)について考えることはあったものの、自分に納得がいかない気持ちが強過ぎるが故に可能性として表面的に考えるだけで、結局のところ体のことなんて眼中にありませんでした。自分の中の優先度が圧倒的に身体面<精神面だったと思います。これからはインナーチャイルドどうこうだけでなく、今までの病的な精神面に付き合って沢山頑張ってくれた自分の体にも感謝して大事にしていきたいです。

 

 

先日、ふと自分の死ぬ時を想像しました。今までは生まれてきたくなかったと何度も思ってきましたし、闘病中は自殺のことまで考えました。自分が最期を迎える時も苦しかったことばかり思い返して死ぬのかななんて、明るい考えは全くありませんでした。

でも、こうやって自分を大切にできるようになってきた今とこれからの自分なら、「私、生まれてきて良かったな」と笑って最期を迎えられそうな気がして、そう想像したら嬉しさやら感謝やら何やら、いろんな気持ちで泣けてきて。想像の範疇と言われればそれまでなんですけどね。

母親にも「生きるのがしんどい」「生まれてきたくなかった」と何度も言ってきて、周りに「親になんて酷いことを言うんだ」と言われた時もありました。でも今は、産んでくれた事実に感謝できる気がします。あの家庭での嫌な過去を帳消しにして感謝するとかいうことではなくて、ただ単純に私を産んでくれたことに感謝するんです。きっとこれから先も、自分を大切にできるようになってきたことで親への見方も変わってくるのかもしれません。大きな変化だ。

 

 

関連したようで微妙にニュアンスの違う話を連続で投入してしまったので、少々読みにくかったかもしれません💦

今日綴った感覚も、自分を大切にする習慣が身について当たり前になっていけば忘れていくんだろうな。だからこそ、時間はかかるけど自分のためにちゃんと残しておきたい✍️

 

今日は午前から料理続きで、昼過ぎから髪を触る手が止まらなくなってきたので、頑張りすぎ・疲れてるよのサインだと思います。どのくらいがやり過ぎなのかがイマイチよく分からないから、ずっと悪癖だと思っていたこの癖も今は有難いサインです🙏

やり過ぎないぞと決めているはずなのに、一つやりだすと止まらなくなってしまって。自分に課すことは決めたらガンガン行動できるのに、休むことについては自分の決めたこともなかなか守れないからもどかしい。少しずつ頑張り過ぎないようセーブできるようにはなってきたんですが、もとがやり過ぎ人間なので一気には変われないものだ…_(:3 」∠)_

このあとはできるだけゆったり過ごしたいと思います。学生時代から闘病時代まで、休むと言えば体調崩してベッドの上からほぼ動かないっていうような休み方ばかりだったから、動けるようになった今の休み方が本当にわからん…。休むって難しいね。日中の休み方はまだよく分からないけど、とりあえず今の目標は8時間睡眠を習慣化することです🛌🌃まずは衣食住と眠りからアプローチしています。これも試行錯誤か👼

 

今日の昼食。自分の食べたいものを作って美味しく食べられるって、時間も労力もかかることだから本当にすごいことだ。偉いぞ〜〜👏👏