種をまく日々

生き下手人間の奔走する日常

ゴミ屋敷

本日のタイトル。何がゴミ屋敷かと言いますと、

私の脳内がゴミまみれということです。

 

寒さによるものなのか、12月頃から疲れが全然取れないと嘆いておりました。反省をもとに体を温めて休息を取っても効果が薄く、一向に疲労感がなくならないつらい状態が続いていました。

もういい加減しんどくなってきたところで、「脳のゴミ」という以前から気になっていたワードに触れる機会がありました。

 

まず脳のゴミとは何かを説明しようと思いましたが、疲れてるし面倒なのでやめます笑 気になる方は下記の動画を見るか調べてみてください🙌


www.youtube.com

よくお世話になっているゆっくり解説。睡眠の質の上げ方にも興味があったところで出会った、この「脳のゴミ」「眠り方」という私の興味ド真ん中をついてくる動画。これを皮切りに「脳のゴミ」について更に興味が湧き調べてみると、思い当たる節しかない情報に辿り着きました。

www.taisho-kenko.com個人的には、このサイトが大変分かりやすかったです。

 

好奇心旺盛な自分の性格上、次々と新しいことを知られるネットは本当に娯楽そのものでした。スマホから得られるそんな快楽は、実はギャンブルや薬物から得られる快楽と同じ種類であり、その中毒性・危険性を改めて知りました。

「脳のゴミ」に関連して「脳疲労」「脳過労」という言葉も知り、自分の疲労感はきっとこれに違いないと思いました。ずっと頭が働いている感じ。「脳過労」状態をイメージしただけで自分の状態に当てはまりすぎる感覚がしました😱

そして、「脳はそもそもマルチタスクが苦手」という事実も衝撃的でした。かなり長い間マルチタスク生活を続けてきましたが、タイパがどうとか効率性がどうとかいう以前に、その行い自体が脳を疲れさせていたのかと思うとそれこそ正に効率が悪すぎたというか😂以前に「ながら食べ」について言及したことがありましたが、やはりマルチタスクをやめることで見えてきそうなことが沢山ありそうです。

tane-plants.hatenablog.com

また、自律神経の乱れはストレスや寒暖差によるものだけでなく、脳の疲れによっても引き起こされるというところも盲点でした。眼精疲労・肩こりの自覚はずっとありましたが、脳過労による吐き気や倦怠感もあるのか…😇

適応障害の時は音や視覚情報が多いとパニックになっておりましたが、脳が疲れて他の多くの情報が入ってくると混乱したりシャットアウトしたりしてしまっている今の状況も、当時と似たような状態なのかなとも思ったり。

 

私の場合は、スマホ依存というよりネット依存でした。中学時代にネットの民に成り果て、早15年。当時から休日は7時間以上パソコンに向き合っていることもよくあり、大学時代にはツイ垢6個、インスタエッセイ早朝まで読みまくりとSNS廃人にも成り果てました。そんな生活を続けていると、大人になった今でもネサフ習慣はかなり根強く染み付いており、仕事以外の時間はほぼネサフをしているような状態でした。

そんな状態で、ネットから離れたかと思えば、今度は自分のことや周りのことについて延々と考える。ネットの情報量の洪水に呑まれつつ、それ以外は繊細さによる感受性により沢山のことを感じ取ったり自分や周りのことについて熟考したり。私の生活習慣に、脳の休む時間なんて全くなかったんだと今思えば分かります。過酷な扱い方をしたのは自分の心身に対してだけでなく、脳もだったなんて😭

 

ここ数日、ほとんどスマホを触らずネサフもしないようにして7〜8時間の睡眠をとってみると、翌日の脳内のクリア度が格段に上がった気がしました。本当に言葉の通り、クリアな感覚がするんです。一度この澄み渡ったようなクリアさを感じられると、数日前までの自分の脳内が汚物だらけのゴミ屋敷のように感じられました。特殊清掃の動画を見ていたおかげもあって、虫湧きまくりのドロドロな汚部屋状態をリアルに想像できて、余計に嫌悪感・不快感も増しました(好影響笑)。

ただ、これまで膨大な時間をネサフに費やしてきたので、いきなりその習慣がなくなると何をして過ごしたら良いのか分からなくて呆然としました。本来はこの時間で自分の趣味や気になること、勉強などに取り組めば健康的だったんでしょうね。自分がいかにネットに依存してきたか、そしてどのように時間を使ったら有意義か改めて気づくことができたので、これからはこの空いた時間で自分の心の栄養になることをしていきたいです。

 

 

そういえば先日、気になっていた方を久々に見かけたのですが、もう当初の会えた喜びとかときめく気持ちは一切ありませんでした。今はそれよりも、こうやって自分の生活を豊かにしながら仕事の勉強を頑張りたいと思えている自分がいることの方が嬉しくて、そんな自分に気づいた時とても幸せな気持ちになりました。こうやって少しずつ前に進んでいけてるんだなあ。

脱ネット依存が見えたところでちょうどWi-Fi無し物件に引っ越すので、脳のお掃除に加え眼精疲労の軽減・視力回復も目指したいと思います✊固定費削減どころか心身の健康にも繋がりそうで更に嬉しいです😭✨🌱

ネットに触れているとどうしてもインプットの量が膨大になるからアウトプットが大事とありました。ただでさえインプットが多い人間なので、ネットに触れる時間が減ってもブログで吐き出すことは大切にしていきたいです。

 

 

追記:参考にした動画。自己啓発本で苦しくなっちゃう系人間なので、最近は要約動画の必要部分だけかじって活用させていただいてます( ̄▽ ̄;)

TwitterInstagramのおすすめ機能は本当に害でしかないけど、YouTubeのおすすめ機能はストライクなものや新しい発見があってなかなかやめられないのが難点です( ;∀;)


www.youtube.com


www.youtube.com


www.youtube.com

「手放す」こと ③過去の栄光

えい‐こう〔‐クワウ〕【栄光】

幸いを表す光。「神の栄光

栄光(えいこう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

 

先日まとめようとして力尽きたことを今日まとめてみる。

ここ数年間、「変わる」ということについて考えさせられることがよくあるのですが、そのうちの一つとして、最近は30代を目前にして自分の在り方について考えるんです。

www.youtube.com

人生最初で最後の1回目、生涯完全な人生1年生(新入生)なので、30代がどんな生活になるのかなんて全然分からないんですが、確かに30代は中堅と呼ばれる段階に足を踏み入れる訳で、今まで「若いね」「若いからしょうがないね」で済まされていたことが許容されなくなるだろうっていうのはすごく想像できるんです。ていうか書いてて思ったけど、自分が脅かされることに対する想像力と危機意識が過剰に働きすぎて息苦しい😇

そう考えると、教育学部を出て教職もリタイアし、全く畑違いの分野で奇跡的に雇ってもらえたのに、頑張りすぎないよう自分のバランスを取ることに精一杯でその分野の勉強もまともにできず、ただ作業として業務をこなすだけの日々を数年間送ってしまっている今の状態をこの先も続けてたらやばいという危機感を、最近ビッシビシに感じてまして…

その点、頑張ることを強要されず自分のバランスを取れるよう試行錯誤し続ける余裕を持たせてくれた今の職場には本当に感謝なんです(;ω;)今まで無理なく働けているこの職場でも、このままの状態をずっと続けるということは甘えになると考えます。過剰に頑張りすぎて適応障害を発症した時は「甘え」という言葉に悩まされましたが、回復し試行錯誤しながら自分を認められるほど成長できた今の自分には、ようやく本当の意味で「甘え」になる寸前の状況だと思うんです。

これまでの数年間、病気を再発させないよう無理しないことや気持ちを切り替えること、自分を大切にすることを、悩みながらも身をもって一生懸命学んできました。この数年間が無かったら今の私はないので、今までのように「私のやり方が悪かったんだ」「何をしてきたんだ」なんて悔やんだり自分を責めたりしません(めちゃくちゃな成長😭✨)でもその一方で、「これまで頑張り続けて教員になる目標まで叶えられた自分なんだから大丈夫だろう」という俺は本気出してないだけ精神みたいなところがずっとあったのも確かで。

若いうちは見栄えやステータスに魅力を感じがちと聞きますが、これも若さの至りなんでしょうか。そりゃあ20代の大人とはいえ、その人生の半分以上は周りの大人の評価や理想に依存するザ・優等生ちゃん(悲しい皮肉)だった訳ですから、人生経験も少ないと学歴以外に大切なものも見えにくかったというか、勉強ばかりしてきたからそれ以外に誇れるものも少なかったのかもなんて。なんか予定外にも踏み込んだ話になってきたな(⌒-⌒; )

20代はそれで仕方ないのかもしれない。でも、30代以降もそうやって何年も前の、最早過去の栄光に固執するのはやばい大人だと思うんです。職場にいた「この人ただ歳だけ取ってきたんだな、今まで何して生きてきたの」と嫌悪してきた人と同レベルの大人になっちゃうというか。数あるやばい大人の一つ、「過去の栄光に縋り続ける大人」になっちゃうと思うんです😱こうやって客観的に気が付けず、過去の栄光に固執し続けてしまっている人も多いのかもしれない。

若者に価値観を押し付ける訳でも軽視する訳でも全くないのですが、人生80年で考えれば学生時代の栄光なんて微々たるものなんですよね(これを学生に言ってはいけないと思う)。大人になって大事なことは過去の栄光に縋り続けることではなく、どれだけ努力を継続していけるかということだと最近気づくことができました。引っ越しが終わって落ち着いてきたら、仕事の勉強に取り組むようにしていきたいです。体調面のこともそうだけど、30代を目前にして自分自身のあらゆる価値観の変化を感じています。アラサーって奥が深いなあ😌個人的には30代が一番輝いて見えるので、素敵な30代になりたいと思っています✊

 

過去の栄光と話は変わりますが、大人になっても幼少期のような変化への柔軟性はもち続けていたいものです。例になるか分からないけど、小さい時は積み木で楽しく遊んでいて、少し成長して他の楽しい遊びを見つけて積み木で遊ばなくなっても、積み木に縋り続けたり積み木で遊べなくなった自分を責めたりすることってないじゃないですか。でも今は、好きだったことに楽しみを見いだせなくなってしまったことを悲観したりずっと好きで居続けようとしたりしちゃってたりしてて。自分が変わることで、自分が自分じゃなくなるんじゃないかっていう感覚が潜在的にあった気がします。変わることはこれまでの自分を否定することになる気がするとか、つらい自分が自分であるという認知の歪みもあって、また一皮剥けようとしているところを大きく阻害しているというか。数年前までは、自分は幸せになってはいけないとか、幸せなことがあったら何か大きな不幸が起こるんじゃないかと思ってしまっていて、一皮剥けるとかスタートライン以前の問題だったな。「変わってもあなたはあなたです」と、久々に見たこけももさん動画でまた背中を押してもらえました。その考えが腑に落ちるまであと少し💭

子供や学生のように、若いうちは家庭や学校という狭い環境下で保護者に依存しないと生きられないという難点がある一方で、先生や周囲の大人、友達など、自分を助けたり正したりしてくれようとする人の割合が多いんじゃないかと思うんです。でも、大人になると歳を重ねるごとにそういう人たちの割合ってガクッと下がるんじゃないかと思ってて。大人って自分が凝り固まって他人からのアドバイスを柔軟に聞き入れられなくなっちゃってる人も多いし、相手を助けたり間違った道に進んでいるのを正そうとしたりすることが寧ろ衝突を生む可能性を上げたり自分の限られた労力・気力を使う羽目になるから、よほど大切な人じゃない限りは放っておくのが吉みたいになってみんな避けがちというか。友達も価値観の違いやそれぞれの生活があって疎遠になっていっちゃうし。と考えると、大人は子供と違い自由でいられる反面、自分自身を律する力や変化への柔軟性をもち続けないといけないという大変さもあるんだなという持論にたどり着いたり。この世で真っ直ぐ健康的に生き続けるって本当に難しいし、人間って本当に不完全な生き物なんですね。

 

自分自身の価値観の変化を感じたり犯罪のニュースを見たりした際、こうやって一人で物思いにふけっています。

全く関係ないですが、オタ離れをして久々に見たアニメですごく胸が躍って我ながら驚いたことがあって。主題歌が最高なのはその通りなんですが、アニメ自体の世界観とかキャラデザインもすごく好みで、純粋にアニメを楽しめたのがかなり久々だったので新鮮な気持ちになりました。振り返ってみると、ここ10年近くアニメも音楽も何事も、神作品・大好きなアーティストばかりに執着しすぎていたなあと思いました。NARUTOとかコードギアスとかの激推し神作品と比べれば内容はかなり薄いんですが(笑)、純粋に楽しみながら見られています。

何事もこのくらいフラット・フランクに向き合えたら良いなと感じました。柔軟性・フラットさ・フランクさ、持ち合わせていたいです(*´-`)💐


www.youtube.com

あたしンち

最近の日課あたしンちを見ることです。


www.youtube.com

小学生の時は何の気無しに見てたんですが、大人になった今見てみるとオープニングだけで泣けてくるという本当に良作です。

あたしンちを見ていると、こんな「誰かと一緒に過ごすなんて考えられない」「家庭をもつことに良い印象がない」なんて長年思ってきた私でも、誰かと一緒に暮らすことの素敵さや憧れを感じることができます。まあ、自身の成長のおかげもあって思えるようになったことなんですが(⌒-⌒; )

一方で、「毒親」が頭をよぎって不快さを感じることも度々あって。まあ真の毒親とは程遠いんですが、お母さんの子供への叱り方が自己中心的・否定的で良くないなとか、お父さんのお母さんに対する命令口調が嫌だなとか。純粋に楽しめない話もそれなりにあって。というか書いてて思ったけど、私の見る目が偏ってるというか、自身の経験からそういう見方になっちゃって勝手に苦しくなっちゃってるかも😭

でも、実はこれが一般的なよくある家庭なのかもしれないと思うと、過去にセラピストさんに言われた「あなたが自分に完璧を求めるように、あなたの両親に対しても完璧を求めてしまっている」という話も頭をよぎって。あのお母さんの叱り方でも逞しく生きてるみかんやゆずを見ていると、私が弱かったのかなとか思ったり。いやだめこの極端な考え方は!たちばな家の環境イコール私の家庭環境ってわけじゃないし、確かにどんどん認知が歪んで拗らせていく中で家庭への嫌悪感と共に理想も高くなって、親に対して余計に厳しい目になってしまっていたのもあると思う。こうやって冷静に自分の置かれた状況を見る視点を持てるようになったことが大成長大進歩だよ👍👍なんて、文字を打ち込みながら感情が真逆の向きで行ったり来たりするような自問自答をしたりね。大変だね(他人事笑)

オープニング曲「さらば」の「帰ろう帰ろう帰ろうよ家まで」のフレーズがいろんな意味で胸に沁みるんです。そう思える家庭で暮らしたいなと憧れる反面、自分の家はそう思える家庭ではなかったのかなとか考えちゃったりもして。自分の家はそう思えないなと感じながらも、実はそんなことないんじゃないか、そう思えない自分が我儘だったんじゃないか、自分が勝手に機能不全家庭と思い込んでレッテルを貼ってるんじゃないかとかまた考えちゃったりね。自分の家庭が幸せな家庭ではなかったと認める・受け入れるのに、どうしてこんなに何度も葛藤するもんなんだろう。

こんな感じで、いろんな感情になりながらあたしンちを見ています。こういう感情でこの作品を見ている人がどれくらいいるんだろう。「おもしろーい!」って感情だけで見られることが、どれだけ幸せなことなんだろう。あたしンちを見ていると、完璧な人間なんてほとんどいないんだろうということを改めて教わっている気がします。完璧でなくても誰かと一緒に暮らすことでの幸せがある、それがこの世の中の一般的な幸せな家庭なんじゃないのかなとか思ったりね。分からないので想像しかできないんですが…

固定費見直しのためWi-Fi環境無し住居に引っ越すことが決まり、「引っ越すまでに全話見なきゃ」という最早半分義務感で見てしまっています😭純粋に楽しんだ方が幸せなのに、娯楽も義務にしてしまいがちなのが相変わらず生き下手というか何というか…まあ全話500話以上あるようなので無理確なんですけどね( ´ ▽ ` )ハハハ

 

本当はもう一つまとめたいことがあったんですが疲れてるので程々に、今日はここまでにします。自重できるようになったの偉いよ〜〜🙆‍♀️

ではまた数日後にお会いしましょう🙋‍♂️🌱

 

 

 

 

疲労からの暴走

前回の投稿後。

「胸の奥がギュッとなって温かさを感じられるようになったのは、冷え切ったコンクリートと比喩された私の心が、ようやくそれを感じ取れるくらい解れた状態になったからかもしれない!」「鉄の甲冑とお別れして、ようやく真正面から私を見てくれるようになったインナーチャイルドの状況も大きいかも〜!😊」なんて喜んでいましたが…

絶不調なうです。なうって死語かな笑

 

今までの幸せオーラどこ行った?今までの出来事は夢だったのか?ってレベルで不調です。

心身の疲れが相変わらず取れにくくて。ようやく生理も始まったのに、いつもよりメンタルの回復も遅い気がします。寒さ対策はだいぶ頑張ってるんですが、やっぱり冬は心身殺られるんだな😭つらい

こんなに疲れてるのに、急遽来月引っ越すことを決めました。我ながら意味がわからない😇

一人暮らしを始めて1年半ちょっと。最初の物件は入居して1ヶ月で引っ越すことを決め、今の物件は割と気に入っていて引っ越す予定は全く無かったのに、数日前に次の物件を発見・申し込んで自ずと退去も決まるという。全部自分で決めて動いていることなんですが、引っ越しが視野に入っていなかったのにもう来月には引っ越すことになった今の状況が自分自身ちゃんと飲み込めてないというか…自分で自分がよく分かりません👼

固定費の見直しはしたいなと最近考えていたからこその行動ではあったと思いますが、自分の心や状況を全く無視して理想に突き進むあたり、この感覚久々だなーと思ったり。そしてこちらも久々同時進行で、自己卑下、誰とも関わりたくない、あらゆるものを妬む・呪う、人の好意を受け止められなくなって孤独を感じてメソメソするっていう、今までの魔の悪循環に苛まれてて(TT)というか今までこれが通常運転だったのかと思うとほんとにしんどすぎて考えられない(^q^)

前にも話したかもしれませんが、やっぱり私の場合疲れると歯止めが効かなくなり余計に暴走してしまうのかもしれません。疲れて判断力が鈍るだけでなく、最近自分と向き合わなくなったことで余計に、立ち止まって自分を客観視することも自分の暴走に気付くこともできないというか。自分を大事にしようという意識も、②が①を無視して暴走している危機感も完全になくなってましたし、そんな中また自分虐めが始まりかけてました。書いてて我に返った、危ない危ない(-_-;)沼にハマる前に我に返れるってのもすごい成長だよねほんとに!!(情緒)

今回の場合はきっと単に疲れて暴走しているだけなんだと思います。暴走して前の悪しき状態に戻ってしまうなら、私にとって最大の敵は「疲れ」ですね。なんかまた自分自身腑に落ちるすごいことに気づけちゃったかも…😳✨あとは、適度に自分と向き合う機会をもつっていうのは大事なことだなとも改めて思いました。

 

ほとほと疲れているのか、しばらく止まっていた唇の皮剥きも悪化してまして😇疲れすぎて、文章を考えて打つ気力もあんまりない…_(:3 」∠)_

自分と向き合う頻度が激減したのにも関わらず、やはり1週間更新しないだけでも頭の中が容量オーバーになるほど色々考えたり感じたりしているようで。それが余計に不調につながってる気がして、今日は帰ったら絶対更新しようと決めてました✊🔥

妹も病院から、「たくさん考えたり感じたりしているのをアウトプットしないと、頭の中でそれがずっとぐるぐる回り続けて、パソコンがデータ読み込み続けて処理遅いのと同じような状態になるよ」って言われたらしいです。疲れて暴走して正常な判断できなくなるのもパソコンに置き換えて考えれば分かりやすい。こまめな吐き出し、本当に大事にしたい👼

 

引っ越しを目前として呆然としておりますが、年間10万円ほど経費が浮くのは良いことですし、よほどのことが無い限りしばらく引っ越しはしないことにしようと考えています。まずは自分の環境を整え落ち着かせてから、無理なく次の目標に向かって取り組み始めたいと思います。

皆さんの自分を大切にする方法はなんですか?

雑多(2024/01/28)

今日はここ数日で感じたことをテキトーに綴ります。テキトーなつもりでも、内容はかなり重めになっちゃったかもしれません💦

 

生理前で気持ち落ち込みつつの投稿です。昨晩は、欲の赴くまま某チェーン店のジャンクフードを暴食しておりました。食べたかったはずなのに食後の気持ち悪さたるや…😇

前にも書きましたが、生理前って記憶の底に押さえ込んでいるトラウマが浮上してきがちなんですよね。この期間に性関連の情報に触れると過去のトラウマが連想されてきて、いつも以上に不快感・気持ち悪さを感じてしまうんです。

私の場合、性的虐待の内容は比較的軽度な方だと思うんですが、それより酷い扱いをされている人たちはきっと沢山いると思ってて。本番経験なしの軽度だった私でさえ、これまで長い間異性を怖い・気持ち悪いと思うだけでなく、女でいる自分でさえも気持ち悪いと嫌悪してきたわけだから、本番までされたことがある方や被害の期間が長い方々はきっと何倍も何十倍も怒りや悲しみ・嫌悪感・不快感を抱えながら生活されているんじゃないかと考えたりして。そんな方々に直接お会いして話したことはまだないのですが、今もそういった負の感情に苛まれ悩み苦しんでいる方々の存在に想いを馳せると、やはり性質上かなり共感力を働かせてしまって、余計に加害者や性への不快感が増すというか。

少し弱るとこんな状態なので、前回の記事に書いた「性教育に携わること」って、多分自分の現状的にはまだ早いんだろうなと思いました。今では、被害者が矛先を自分に向けることは間違っているということはだいぶ分かるようになりましたし、同じように苦しんでいる方がいたら全力でその方自身を肯定したいです。恋愛に関してはまだまだ未熟で、異性と関わることから得られる幸せを実感してみたい、自分の負の感情やトラウマの記憶を上書きしたいと感じる今日この頃です💭

 

虐待に関連して、某放火殺人事件の被告にも思うことはあって。

被告の半生についてまとめられたニュースを見たのですが、やっぱり子供の頃に家庭で虐待を受けたり周りから虐められたりした人たちって、健康的に生きることの難易度が一気に上がってしまうんじゃないかと感じました。事件までは起こさなくとも、大人になる上で一般的な人たちよりも人間関係や自分自身のこととか、何かしらの問題にぶち当たり苦しみ続けてしまうというか。そしてそこから解放されるのには、これまた一般的な人よりもかなりの努力が必要になってしまうというか。自分の経験に基づくと、他者から与えられた悪影響から解放されるには自分一人の努力では本当に難しくて、それを解放させてくれるのも他者であり、あとは絶対に諦めない自分自身の姿勢なんじゃないかと考えています。

ぶっちゃけると、私も数年前までは自分の命なんてどうでも良かったし、他人の命もどうでも良かったんです。だから、「酷いな」とは思っても心から被害者に思いを寄せる思考回路をそもそも持ち合わせてなかったり、某新幹線車内殺人事件の時も被害者よりも加害者の方に気持ちを寄せてしまうこともあったりしてね。正常な人たちからしたらお前も十分酷い人間だと思われるのかもしれないけど、当時は本当にそれほど歪んでいて視野も狭かった。

私も、自分自身改善や解決の意欲をもっていなかったり、大切な人たちやお友達🐈との出会いがなく、出会いがあっても相手から学ぼうとしなかったりしていたら、正直いつ犯罪者になるか分からなかったなと思うことはよくあります。犯罪の種類は分からなくても、最終形態として何か犯罪になるようなことをしてしまうんじゃないかなっていう恐れ的なものはありました。頭では思っていなくても、「自分がひどく辛い目に遭ったから、他の人だって同じような目に遭っても良い」みたいな感覚がどこかあったんじゃないかと今では思います。それが間違っていること、どんな背景や問題を抱えていても他人を犯して良い理由にはならないこと、これも漫画が教えてくれました。これが割と最近っていう…読んだ時の感想も「そうなんだ…」って感じで😂そんなことがなかなか分からない、分かれないほど歪んじゃうんですよ😇

漫画「ひともんちゃくなら喜んで!」より

漫画「ひともんちゃくなら喜んで!」より

若干話は逸れるのですが、私が適応障害で闘病していた時に心配してくれた近所のお爺さんがいて、その方と数年ぶりに話す機会がありまして。その方はほぼ寝たきりになった今でも、私のことを心配してくれて。ご自身が大変な状態になっているのに余計な心配をかけてしまったなと思い、「今は通院も服薬もしていないほど回復したので、もう心配しなくて大丈夫ですよ」と伝えた時、「そうなのか、良かった」と話された後、笑顔で「でも、心配したい」と言われたんです。その時何だか分からないけれど胸の奥がギュッとなる感じがして、涙は出ませんでしたが泣きたいような感覚にもなって。孤独を感じることはないかと心配してくれた他に「たねちゃんは良い子だ」と褒めてくださったりして、「周りの方々が本当に優しくて恵まれてるだけです」って返したりして。

そのお爺さんも昔は教員をやっていて、心の病気で教員を辞め希死念慮がある闘病中の私を当時から心配してくれていました。しかし当時の私にとっては寧ろそれが鬱陶しく感じられていて、「先生だった自分が満足したいから勝手に心配してくるんだろう」「私のことなんて関係なしに持論を押し付けてくるんでしょ」とか、「自己満足に私を使うな」「余計なお世話」などと思っていました。酷すぎて最早笑える😂(しかし当時の自分の状況では仕方ないと思います)

帰宅して改めて思い返してみると、「心配したい」ってなんて優しい言葉なんだろうと思いました。当時の歪んだままの思考だと結局自己満でしょという発想になりますが、今はそうは感じません。関係性がそこまで深くないだけでなくお爺さん自身以前よりも弱った姿でありながらも、私を心配して笑顔で話してくださるのも本当にありがたくて。人に心から感謝はできても、胸の奥がギュッと温かくなるのはもしかしたらこれが初めてかもしれなくて。ああ、もしかして今まで私に足りなかったのはこういう経験だったのかなと思うと、ようやくそのことに気付けた喜び・安堵感だったり、人の心の温かさを感じられた嬉しさだったり、また家族以外の人にすごく大事なものを教えてもらえたという有り難さだったり、負の感情とは違うたくさんの幸せな気持ちでいっぱいで涙が出ます。

話は戻りますが、子供の頃に虐待を受けたり家庭環境に悩み苦しんだりしてきた人たちに必要なのはこの感覚なのかなとも思いました。人から得られる愛情や安心感と、その上で自分自身にも愛情をもつことというか。人は一人では生きていけないとは本当によく言ったものだと思います。人が変わるっていうのは歳を重ねるごとにどんどん難しくなるとよく言われますし、だからこそ子供のうちの経験はかなり大きいものであって。子供たちにとって良い環境を整え、必要な教育をするというのが本当に崇高な理想なんだと改めて思います。ずっと教育現場を出たことがなく社会経験も少ない当時の根拠の薄い考えとは見違えるようだ🙏

 

思考整理・備忘録用の完全自己満ブログなので、かなり偏った内容で不快にさせてしまっていたらすみません🙇💦結局泣きながら投稿することになりましたが、やっぱりこういった大事な変化は残しておきたいと改めて感じました。自分のことだからこれから先もっと生きやすくなれると信じているのですが、その背景には沢山の悩み苦しみ、努力、沢山の人の支えがあったことを忘れずにいたいです。

 

与える

また心身共に調子崩してました、たねです。

やっぱり寒さなのかな、12月からなかなか疲れが抜けない_(:3 」∠)_

ということで、ハーフ毛布やカイロを購入したり白湯生活をスタートさせたりと努力し始めています。数年前の自分じゃ考えられない行いだ…😇

 

本日の表題「与える」ということについて。

昨年は大好きな人たちからたくさん救ってもらったり大切なことを教わったりして、「与えられる」こととそれに対する感謝を強く感じた年でした。

与えてくれる周りへの感謝や幸福感はある一方で、自分自身が満たされていなかったからか、逆に自分が誰かに何かを「与える」ことができるという発想や感覚は全くありませんでした。

年が明けて、同じく家庭環境に悩み苦しみ続け闘病している友人と久しぶりに会って話ができたのですが、これをきっかけに自分も誰かに何かを「与える」ことができるのではないかと考えるようになりました。

詳しいことは記載しませんが、友人は現在進行形で通院・服薬していて、つらい時は飲酒量も多めになってしまっているようでした。私に「強み」を教えてくれたその子ももう十分頑張っている、既に私よりもすごい強みをもった素敵な人であること、自分で気づけないほど身を削り他人のために頑張って限界に達したら自殺しようとしてしまう前に、小さな頭痛・腹痛や強めの飲酒願望など日頃の些細な自分の変化に気づいて無理をしないようにしてほしいこと等々伝えることができました。その子を大事に思う友人としての立場から、また、自分を認め幸福を感じられるようになるほど回復・成長した身として伝えたいことを伝えられた気がしています。個人的には自分の成功体験を人に押し付ける闘病経験者が一番タチが悪いと思っているので、そうならないように注意したつもりです。自己満が大きいと思いますが、この1月は私からこの子に伝える、「与える」ためにあった時・月だったように感じました。

「与える」という体験をしたことは、自分を満たせず周りに支えてもらってばかりいた私にとってかなり印象的な経験でした。この経験ができたのは、内なる自分が徐々に癒されてきたことがかなり大きな要因になったのではないかと思います。「嫌われる勇気」か「幸せになる勇気」のどちらかに、自分が満たされていない人が他人のために何かしようとすると失敗する的な話があったような気がします(記憶違い・解釈違いだったらすみません)。読んだ当時は単純に自分が教員を辞めたことは正解だったんだと感じましたが、今は当時とは異なる視点で、自分が満たされている人が他の人に何かを与えられるという意味を感じることができます。満たされているとは言っても、生まれた時から満たされ続けてきた人と満たされない状態を知っている人とでは与えられるものの質が全く違うと思うので、満たされないところから徐々に這い上がってこれた我々はきっと貴重でかなり価値ある存在だと思うのです…✊!自他ともに自己肯定感上げていくスタイル笑

この経験から、自分が人に与えることができるとしたら何を与えられるだろうと考えてみたときに、自分が性的虐待に遭ったことや昨今の子供へのわいせつ行為事件への問題意識から、「性教育」が頭に浮かびました。被害者に寄り添うというのは感情移入をしてつらくなってしまうので難しいと思うのですが、次世代を担う若者たちの健康的な性教育に貢献できたら良いのではないかとか考えたり。以前にも紹介しましたが、自分も相手も大切にするために正しい性教育が必要だと教えてくれたこの漫画⬇️も大きな出会いだったと思います。闘病アカウント時代、性教育に取り組んでいる団体を紹介してくださった方がいましたが、当時は「性」への拒否反応が強く見るのも苦痛でした。今でも拒否感は多少ありますが、それも結局正しい性教育がなされていないということであって…。すぐに行動には起こさずとも、選択肢として頭の中に留めておきたいと思います。

 

話は変わって、最近の私ですが、ふと気づくとあまり自分と向き合わないようになっていました(良い意味で)。以前のように常に自分の課題を探してその改善に注力するみたいなことが今はほぼない状態です。なんなら自分の内面よりも身体と向き合うようになり、冷えや倦怠感対策、メリハリのある生活への転換など、フィジカル的な努力をするように変わってきています。単に心よりも身体の不調を強く実感することが多かったからなのかもしれませんが、きっかけは何であっても劇的な変化です🙏

ただ、昨夜また寝ながら無我夢中で髪を触ったり抜いたりしてまして…(^q^)本当なんなんだろうっていう感じなのですが、この状態もいい加減嫌になってきて。

数日前に貧困問題や特殊清掃、犯罪特集とかの動画を見漁ってから余計にメンタルおかしい気がする😂すごく社会勉強にはなるので好きなんですけどね。特殊清掃に至っては、以前気になってた漫画を読んだ時にも同じくメンタル落ちたなあ。自分には受け付けられない仕事をやってくれている人たちがいるってのは、本当にありがたいことですよね。

火葬場職員のエッセイ漫画とかもね、想像力豊かなので最後までちゃんと読めなかった。好奇心旺盛なので自分の知らない分野を知ることが大好きなのですが、無自覚にも反動が大きかったようです👼こうやって振り返ってみると、病んでいる時はダークファンタジーやホラーを好んでよく見ていたんですが、今はそういうものに触れると不快感があってグロ耐性も無くなってきているので、当時はあまりまともな状態ではなかったんだなと思いました😓

脱線しまくってますが、自分の価値観の変化に動揺することもありまして。以前は必ず行っていた好きなアーティストのライブに今は行く意欲があまり湧かなくなっていて、それが自分自身割とショックで。あとは、実家はやはり嫌いでも、両親が贅沢せずに自分を大学まで行かせてくれたことや奨学金返済に苦しまずにいさせてくれたこと、母に関しては父方というストレス因子まみれの環境でほぼワンオペで育て続けてくれたことへのありがたさに気づいたり。今までは実家を嫌いでいることが善か悪か、親孝行をしなきゃいけないか全く関わらないか等両極端な二択で判断しがちで、複雑な心境になっては悩み苦しんできたので、この感覚には動揺しました。今でも親を肯定する言葉を出すとやはり胸が苦しくなる部分もありますが、親に苦しめられて嫌いなのはそれはそれ、親が自分のために尽くしてくれた事実はこれはこれというか、事実を切り分けて考えられるようにもなってきているのも大きな変化で。家の問題はやはり徐々にしか変われないけど、変われること自体すごく素晴らしいことで、距離を置いたことで見方も変われて来ているので、家を出るっていうのは単なる逃げではなく一種の手法なんだなって改めて思います。

こうして見てみると、内面と向き合う頻度が減ったことで、こういった自分自身の価値観や感覚の変化に余計に動揺したり混乱したりして髪を触ってしまっているのかもしれないと感じました。明日の貴重な休みで価値観と物の整理・断捨離するぞー✊

 

結局表題の内容と近況が同じくらいの容量になってしまった😇前よりもかなり適当な文章と構成になってきている気がします。それも良い意味で捉えていこう( ´ ▽ ` )笑

弱み・強み

常温の水でも高確率でお腹がやられるようになってきました、たねです。

最近は常温のものを飲むのも怖い…_(:3 」∠)_

 

本日は待ちに待った美容院デーでした。

数ヶ月前からパーマをしてみたくてうずうず(((・ω・)))剛毛癖っ毛なのでパーマしなくてもスタイリング剤で十分と言われましたが、好奇心&経験しておきたくてチャレンジ。結果、言われた通り今までと対して変わらず、ただお金をかけて髪を痛めつけただけでした😇自分の毛質が嫌でしたが、なりたい髪型にお金をかけず地毛でなれるのはかなりありがたいですね🙏

この美容院には数年前からお世話になっていて、ここの美容師さんたちとお話しするのが本当に好きで…皆さん年上なんですが、美容面から個人的な悩みまで何でも話してしまう私に、いつも丁寧に助言をくださったり優しく聞いてくださったりと本当にありがたくて、行くのが毎回楽しみな場所です。

実はここの美容師さん1人にも、昨年の気になっていた方について相談し支えていただいていたので、今日はその報告と支えてくださったお礼を言うことができました。指名してないのになんて嬉しいタイミング…

そこでたくさんの嬉しい言葉をいただいたので、備忘録としてまとめておきたいと思います。今までの癖で具体的な褒め言葉はもうだいぶ忘れてしまってるのですが…💦

・美容院での会話なんて大抵の人は世間話程度で大して覚えていないし、そこでの会話を自分に活かそうとかする人もほとんどいない。だから、こうやって美容院に通ってまつ毛や髪、お洒落について一生懸命学ぼうとしたり、美容院での会話でもちゃんと受け止めて自分に活かそうとできる人は本当に少ない。

・自分の価値観や意見がしっかりしていて、それに基づいて行動できるのは本当にすごいことだし良いこと。多くの人は「まあいいか」とか思いながらなんとなーくで日々生きてしまうし、自分を変える気がなく人から愛されたい人は自分の考えや意見も大してもたないまま他人に同調することも多い。

・大体は「やってらんねーよ!」と、相手とうまくいかなかったことに対して不満をもって、自分が変わろうとかせず愚痴って終わる。相手とうまくいかなくても、自分が成長できて良かったと思えたり支えてきてくれた人たちに感謝できたりするのはすごく素敵なことで、こう思える人は滅多にいない。自分を責めたり嫌いになったりせずに強みにしてほしい。

・大体の人はプライドがあって自分の弱みを人に見せないようにしている。自分の弱みを認めて隠さずに人に助けを求められるのは、それも十分な強み。

 

本当に嬉しい言葉をいただきました。私からすれば、こんな赤の他人に対してこんなに嬉しい言葉をまっすぐ伝えてくださること自体本当にありがたすぎて( ;∀;)この方に限らず、ここの美容師さんたち皆本当にそんな感じで😭きっとずっと前から嬉しい言葉をたくさんいただいていたんでしょうが、褒め言葉拒絶な今までの私には全く残らず…👼こんなに支えてくれているのに本当に失礼なことをしてきたんだなあ。これからは一生懸命受け止めていくぞ✊

上記4つ目についてですが、数日前に会った友人も同じようなことを言っていました。「私は他の人に自分の弱みを見せられない。弱みを握られたら負け、弱みを見せてないうちはまだ勝てると思ってしまうから。だから、自分の弱みを認めて隠さず人にも話せて、助けを求められるのは一つの強さだと思う」と。私からすれば根本的に自信がなかったが故の行動で、そんな発想は全くありませんでした。言われてみて、「弱みを隠した自分にはそもそも何が残るんだろう…」と考えてしまうくらいには自己肯定感が低かったので、隠す隠さない以前の問題でした😇自分ひとりではこの自己肯定感の低さから来る生きづらさ・苦しみになかなかうまく対処できなくて、この苦しみからどうにか解放されたくて人に縋っていたような形です。視点をちょっと変えると乞食のようなものでしょうか…自己肯定感の低さから、他人軸というか他人の評価に振り回されて苦しんできた面はありましたが、他人の言葉を聞き受け止めて自分に活かそうという姿勢はあって良かったんだと思いました。そう考えると、これまでの苦悩の経験も悪いことだけではなかったんですね☺️

自分には弱みしかないと思ってやり続けてきたことが、20代後半になった今、大きな強みになろうとしています。というか強みにもうなってるのかな?学生時代から闘病期間、コロナ自粛期間まで「対自分」の期間が長すぎて、歪んで偏った認知のまま自分を見てしまっていたと思います。終わりも見えず苦しい期間も長かったけれど、盲目なりにも諦めずにもがき続けてきたことが功を奏したのならば、①と②の自分の頑張りはとてつもなく偉大なことだったんじゃないでしょうか。そう思うと心の中の①と②は救われたような気持ちですし、これ以上無理に我慢・努力をしなくて良いんだとようやく安心できている気がします。

コロナ自粛もあけ、様々な人との交流も増えてきたからこそ、沢山の気づきをもらえて自分を見直すきっかけにもなり、視野が広がってきました。自分の弱さから生まれた行動が今や誇れるほどの強さになっていると気づかせてくれたこの数日間と人の存在、時の巡り合わせに、本当に感謝しかありません。大事なことを教えてくれたり気づかせてくれたりするだけでなく、その上で私を認めたり大事に思ってくださる方がいることに改めて心から感謝したいと思います。

 

12月の疲れを引きずったまま年を越し、自業自得ですが休日も動きすぎて結果あまり休めていません。

今日も早朝起きからの料理、美容院、買い物、ジム…そして2時間のブログ更新にこれから食器片付け。自分では無理をしている自覚は全くなく動いてしまって、結果調子が悪くなりました👼相変わらず休むのが下手くそだと痛感しています。直したい。

病院の先生も、生産性のあることは疲れるって言ってたもんね。やっぱり休日に予定を詰め込むのは危険です。1日休みの時は何か1つやれたら💯💮、2日休みの時はそのうち1日はちょっと無理もきくくらいに考え直したいと思います。🛌