種をまく日々

生き下手人間の奔走する日常

ズレ

アロマディフューザーで穏やかな気持ちになりながらあたりめを貪っています、たねです🦑

あたりめも菓子類も、一回封開けちゃうと一気食いしてしまう😇

 

4月末からかなり弱っておりました。残業続きも一昨日でなんとか終えましたが、蓄積された疲労感がやばい…_(:3 」∠)_

最近はまた自分がどこの誰でどういう人間なのかを認識するところから1日が始まるようになってて、これ適応障害発症時と同じ状態なのであまり良くないかも。

弱ってるのに、昨日は通院・買い物巡りで終わりました。仕事と同じ時間に家出て帰ってきて夕方には腹痛。2度の採血で腕も痛い😇自分の無謀なスケジューリングの仕方を見直す段階にきています…

 

とりあえず心療内科に行けたのは良かったので、また今日もまとめておく📝

・自分への声がけすらも、自然と反省した声がけになってしまっている。「私にはこれが足りない」「これができないからできるようにならなきゃ」と減点方式が当たり前になってしまっている。「今日も朝起きられて偉い」「ご飯を食べられて偉い」「仕事ができて偉い」の加点方式に変えていきたい。自分を正そうとしなくて良い。

・ストレスや感情を溜め込むことは、知らないうちに自分の心と体に影響を与えている。「モーニングページ」や「エクスプレッシブ・ライティング」で自分の気持ちを書き出す。他人に見られる前提のブログは別物。見られることを考えず、思っていることをありのまま吐き出す。PCやスマホで吐き出すよりも、幼少期から慣れ親しんでいる「書く」という行為がおすすめ。自分はこう思っていたんだねと、そこでその感情たちも認めてあげる。文字に吐き出すことによって自分の認知の歪みに気づいたり、冷静に客観視することができる。

kinarino.jp

note.com

・本当の自分は内なる純粋な魂であって、外側に纏っている心と体の汚れによって本当の自分が分からなくなってしまう。感情や認知の歪みなどは本当の自分ではない。(的なことが資料に書いてあった)

アメリカの哲学者エリック・ホッファーの言葉「他者への没頭は、それが支援であれ妨害であれ、愛情であれ憎悪であれ、つまるところ、自分から逃げるための手段である。」

 

 

自分の気持ちをノートに書き出すという方法は、こういう生きづらさを抱えた人間だとありとあらゆるところで耳や目にしてきたことではあったんですが、億劫でやってきませんでした。「スリー・グッド・シングス」の延長で自分の気持ちをノートに書き出したこともありましたが、そうすると1つのことに対してだけも自ずとすごい量を書き出してしまって、スッキリ感があるわけでもなく、その書き出す労力や時間もあまり良く思わなかったということがあって続きませんでした。

この方法を紹介された時も、正直あまり気は進みませんでした。今思うと、自分の気持ちをありのまま出すということに怖さを感じているところもあるのかもしれません。長い間自分の気持ちを抑え込んで自分の気持ちがわからなくなった身としては、それをすることによって自分の奥から何が出てくるか分からないし、どんな精神状態になるか分からないから余計に怖いというか。

以前にノートに書き出したときは、過去のトラウマや人間関係のストレスについてが主だったので、やり方を間違えれば逆効果になるともあり、これについては次の通院時に聞いてみようと思います。

www.mental-imposter.com

感情を溜め込むことで処理速度が遅くなるPCと同じような状態だって書いてあって、これ前に自分でも気づけたことだったのに、結局改善されずにまたしんどくなっちゃってるからまだ知識としての理解でしかなかったんだなと思い知らされました。まだ2回しか通院していませんが、今まで自分で調べて知ったこと・気づいたこと・ブログにまとめたことと同じようなことを言われる度に、初回通院時に言われた通り私の中では知識でとどまってしまっている、感覚としては全く落とし込まれていないと気付かされます。

うまく表現できないんですけど、感情ってその人個人に結びついているとてもセンシティブというか複雑なものであって、物・物質のように取り扱ってはいけないっていう認識でいたんです。そう扱うのは無礼というかタブーとして認識している自分がいました。だからこそ扱いにすごく難航していたんですが、「心や体に蓄積された汚れ(健康状態やストレス、認知の歪み等)によって、本当の自分が分からなくなっている」というような資料を見て、摂取をやめてすごく楽になった小麦や乳製品と同じように、感情の蓄積も心身に悪影響を及ぼす物として考えれば、タブー視してうまく処理できなかった今までよりも格段に対処しやすくなると感じました。扱いに困るのではなく、食べ物を食べたら栄養は吸収して排泄するように、感じ切ったら吐き出さなければならない毒素として書き出す習慣を身につける。白黒思考のように、感じること・感情そのものを排除すべき悪いものとはせずに、認め大切に感じ切ったら外へ出す。私にとってはすごく分かりやすくフラットな考え方ですし、取り組みやすくなります。これはあくまで私にとって分かりやすいイメージ・方法であり、他人の感情も同じように扱ってはいけないと思うので、この考え方は生きにくさを抱え続けている自分にのみ適用させたいと思います。

 

 

前回の通院で、弱っている自分や人間をイメージせずに大好きな猫が弱っているのをイメージするという方法を知ったんですが、これが自分には本当に分かりやすかったみたいで。

tane-plants.hatenablog.com

いつも周りの人に当たり散らしている短気なお客さんがいるんですが、その方に話しかけられる機会があって。怒っている内容は仕方のないことで、ただ本人がそれに納得されないってだけだったんですが、こちらから何を返しても威圧的に話され、最終的には「ハッ」と嘲笑というか言ってやって満足したみたいな終わり方をされて。私に原因があるわけではないと分かってはいるんですが、あの怒りに支配されたような目とあの空気感の不快感に加えて、「私がもっとしっかりしていれば良かったのかな」「もっと上手い返し方があったんじゃないかな」とかいう考えも駆け巡って。

こんな時、皆さんだったら自分にどのように声がけしますか?その日の私の声がけは、「そんな威圧的になって人を怯えさせることで自分を通そうとするような弱い人間のことなんて気にしなくて良い」でした。でも、これを「優しく声がけしたのに威張り散らしている猫に威嚇された猫」だったらと想像したら、かける言葉もその感覚も全然違ったんです。「わーー怖かったね、大丈夫だよ。優しく声がけできて偉かったね。あんな奴のことは気にしなくて良いからね。美味しいもの食べたり、楽しいことしたりしようね。」

前者の言葉には、強い言葉で自分を守ろうとする一方で「また人に振り回されて気疲れしてるのか」みたいな気持ちもどこかに含まれているような感覚でしたが、後者には全くそれがないですし、怖く思った気持ちも相手への対応も否定していません。言葉で見ると似たようなことを言っているかもしれないんですけど、感覚的には全く別物で、いかに今までの自分の声がけがズレていたのかが思い知らされます。感覚を知らないまま試行錯誤で自分を認めようとか優しくしようとか頑張っていましたが、そもそものやり方というか感覚が全くもってズレてたんだなと気付かされています。

 

「起きられて偉い」「ご飯食べられて偉い」とかの加点方式っていうのも、結局これなんだなと。適応障害の当時はろくに起き上がることもできず何もできないし、外部からの刺激にもろくに耐えられないような毎日を過ごしていて、闘病しながら「今日は起き上がれた、偉い」「今日は外に出られた、偉い」と少しずつ地道に自分を元気づけていました。自転車に乗って最寄りの郵便局まで出かけられた時の感動は今でも印象に残っています。こうやって自分で動けるようになってしまったら、また義務感・使命感・劣等感に苛まれて減点方式に戻ってしまっていました。バリアフリーとかインクルーシブとか赤ちゃん対応製品とかもそうだけど、弱い立場の人たちへの配慮や対応って結局はどの人間にとっても優しいことなんだなって改めて思いました。原点に戻った感覚です。

 

 

小麦・乳製品みたいに、心身の健康のためにやめたこと・始めたことをまとめたいと言って1ヶ月くらい経った気がする。早くまとめたい〜〜〜〜RGみたいになってる笑 エリック・ホッファーの名言もすごく響いたので、機会があればこの人の本も読んでみたいな📚

1週間以上溜め込んでいたので今回もボリューム多くなりましたが、吐き出しはノートへの書き出しに移行していき、ブログは気楽にやっていければと思います。