種をまく日々

生き下手人間の奔走する日常

完璧じゃなくても

今回も長文&割と重めのお話です(⌒-⌒; )💦

それでも良いよ〜と読んでくださる方のみお願いします🙇‍♂️

 

卒業以来会っていなかった大学時代の友達に会ってきました。

自分含め各々卒業後の様々な経験を通して、みんな棘や角が取れて丸くなっていました。話を聞くと、友達もそれぞれ大学時代思い込みをや生きづらさを拗らせていたことが分かりました。そして今でも悩み・弱さを抱えながらも日々試行錯誤している、完璧な人間ではないということが分かりました。

大学時代の私は、自分以外の人はみんな素晴らしい才能があって、自分はいっぱい努力しないと同じラインには立てないと思い込んでいました。だから、友達は友達なりの悩みを抱えていることや、弱さから楽な方に流れていっていたことも分かっていませんでした。それくらいには自分のことしか見えていませんでしたし、認知の歪みも拗らせていました。

抽象的な表現になりますが、私は誰に対してもその人の斜め上を見ていたと思いました。その人を真っ直ぐ見ればその人自身をちゃんと見て知ることができるのに、斜め上にあるその人への理想や思い込みを見て相手をちゃんと見られていない状態。理想像ばかり見ているので自分以外みんな完全体に見えてしまい、自分だけ劣っているような感覚にもなるわけです。

自分以外みんな輝いているように感じられて歩くのが苦痛だった駅前も、この日は他の人に過剰に魅力を感じることはなくそこまで苦痛ではありませんでした。なんなら自分自身を魅力ある人間だと軸を持って比較的堂々と歩くことができました。この数年間コロナ自粛により他人と接する機会がかなり限られていた中で、自分は理想主義で試行錯誤し奔走してきました。その上で改めて周りを見ると、身だしなみが整っていない人や態度がよろしくない人、周囲をわきまえず自分たちの世界に浸ってる人たちとか、全然完璧じゃない人たちが沢山見えてきて。対して自分は、この数年間で自分が思う「良い」「好き」を追求してきたことが堂々と歩けるメンタルにも繋がってきてて。そう考えると着実に一歩一歩前進できてたんだと感慨深かったり。

マスクを外す人が増えてきたことで視覚的にも心理的にも他の人の全体像が見えやすくなったのも大きいかもしれませんが、みんなそこまで完全・完璧じゃないし、完全・完璧な人は本当に少ないんだと感じました。私は完璧じゃないと人から選んでもらえない、愛してもらえないという思い込みが強かったのですが、世の中は完璧でない人が圧倒的に多く、完璧じゃないから幸せになれないかというとそんなこともなく、皆それなりに幸せに過ごせているんですよね。自覚なしに自分の中で「完璧=幸せ」という誤った方程式が成り立っていたのだとしたら、これってかなり怖い認知ですね😨😱「完璧な人はいない」「完璧じゃなくて良い」というのは再三言われてきましたが、ようやくその本質が体感的に分かってきた気がします。この意味は言葉だけではとても分かり切れないね。

様々な友人から、私の話すことの重みがすごいと言われます。完璧じゃなくても、私がこれまで悩み苦しみながらも経験してきたことは確実に私の糧になって人としての深みに繋がってくれているんだと感じました。だから、ただ目の前の必要なことに一生懸命悩んだり向き合ったりする姿勢を忘れなければ、完璧じゃなくてもきっと十分魅力ある人間になれるし、もう少しずつなれてきてるんじゃないかな。だから自信がないと悩まなくて良いんだ、むしろ自信をもって良いんだ。

10年以上続く「ちゃんとしなきゃ」「うまくやらなきゃ」の全身強張った習慣はなかなか簡単に抜け切れませんが、この日のことを思い出しながら少しずつ手放していきます🌱

 

そしてもう一つの気づき。帰りのバスで楽しかった時間を振り返りながら、自分は大学でたくさんの素敵な人達に恵まれた、あの大学に入って大学生活を送ることができて良かったと思いました。それと同時に、その貴重な大学生活は大嫌いな父親の懸命な労働の上で成り立っていたと気づきました。

その日聞いた奨学金返済の話や、以前別の友人と話した大学時代の親の仕送りや当時のお金の使い方に関する話が結びついてこの気づきに繋がったと思います。大学時代は無利子の奨学金制度を利用していました。大学4年間は持病に悩みながらほぼフル単履修&ガチめなボランティア活動等に費やしてきたので、長期的なアルバイトもできず安価な学生寮で親の仕送り内で生活してきました。無利子の奨学金を借りていたものの両親は何かあった時のために奨学金を借りていて、奨学金と同等の額を仕送り奨学金そのものには手をつけていなかったので、奨学金返済も既に終わっています。ただでさえ高額な学費の他に実質仕送りもあったわけですから、かなりの金額を負担してもらいましたし、おかげで今奨学金返済の苦しみも味わわずに済んでいます。

父親については、幼少期から実の子供に性的虐待をし家族を力でねじ伏せ今でも母に対して高圧的な態度で、人として全く尊敬できず一緒にいるだけで不快感・息苦しさを与えるような人間で心の底から嫌っていました。以前も書きましたが、心の底から嫌えるようになったのも割とここ数年という最近の話で、それまでは生きていくために実家に適応することが第一優先で自分の本当の気持ちも分からず、分かってからも実親を嫌うことへの罪悪感と闘いながらその気持ちを認めていくのに時間がかかりました。時間はかかったものの、これまで長い間封じ込めてきた感情が表に出てくるとその気持ちが暴走するというか際限なくなって、父親の全て、存在自体を強く否定・拒絶するようになり現在に至っていました。

正直、今父親のことをこうやって文章にしているだけでも嫌悪感で吐き気がします。でも、それとこれとは別というか、双極性障害という病気を抱え続けながらも一生懸命働いて得たお金で私を大学に行かせてくれたことは確かな事実であって。そこくらい感謝するのは間違いではないと思う気持ちが芽生えました。こう思えるようになったのはかなりの進歩だと感じます。自分が社会人になって働く大変さが分かったことも大きいな要因だと思います。

いつもこうやって、感謝とか罪悪感とか、父親への嫌悪と相反する気持ちが湧いてくると、自分の中で両極端な気持ちが混在してすごく苦しくなります。今も泣きながら文章にまとめています。この複雑な気持ちを言葉で的確に表現するのが難しい。でも、今こうやって記事にまとめてみたときに、嫌悪感という負の感情を認められていないのに無理に感謝とか罪悪感とか父親に対してプラスな方の感情を認めようとするのはもっと息苦しかったと思いました。虐待を始め何事も、どうして加害者よりも被害者がこんなに悩み苦しまなきゃいけないんだろう。本当におかしい。どんな背景があったとしても人に対して罪を犯して良い理由にはならないと改めて思いましたし、加害側の罪は大きいとつくづく感じさせられます。

そして自分の現状を無視して父親を無理に肯定しようとしたところ、また髪を触り始めたのでやめます。ある意味分かりやすくて助かる笑 妹も前職場で抑鬱状態になり実家に戻ってきましたが、この前の通院時に私の家庭は機能不全家族だと言われたそうな。姉妹揃って不調をきたしているということは、もうそういうことなんでしょうね。

 

結局最後には髪をいじり出すという、これもまたストレスを感じる内容でした。でも、むやみやたらに自分と向き合うということではなく、自分の気持ちを軽くするために大事なことは多少ストレスを感じても向き合った方が良いと思うので、今回の重めの内容も今後の私をもっと生きやすくさせる大切な思考整理だったはず。

友人や大切な人たちに会うと、いつも良いインスピレーションがもらえます。本当にありがたいですし、その上で今の自分が成り立っている感覚、大切な人たちへの感謝を自分の中で土台にすると心が安定する感じがします。狭い視野で人の好意・厚意も跳ね返し自己肯定感の低さに悩んで独り相撲してきましたが、最近は人からの好意・厚意を受け取る、人へ感謝する気持ちを持ち続けることで満たされることの大きさ・温かさを感じています。年末まで人と会う機会が続くので、この機に自分をたくさんアップデートさせて新年を迎えたいと思います😊🌅

最後まで読んでくださった方、ありがとうございましたm(_ _*)m🌸