種をまく日々

生き下手人間の奔走する日常

雑多(2024/01/28)

今日はここ数日で感じたことをテキトーに綴ります。テキトーなつもりでも、内容はかなり重めになっちゃったかもしれません💦

 

生理前で気持ち落ち込みつつの投稿です。昨晩は、欲の赴くまま某チェーン店のジャンクフードを暴食しておりました。食べたかったはずなのに食後の気持ち悪さたるや…😇

前にも書きましたが、生理前って記憶の底に押さえ込んでいるトラウマが浮上してきがちなんですよね。この期間に性関連の情報に触れると過去のトラウマが連想されてきて、いつも以上に不快感・気持ち悪さを感じてしまうんです。

私の場合、性的虐待の内容は比較的軽度な方だと思うんですが、それより酷い扱いをされている人たちはきっと沢山いると思ってて。本番経験なしの軽度だった私でさえ、これまで長い間異性を怖い・気持ち悪いと思うだけでなく、女でいる自分でさえも気持ち悪いと嫌悪してきたわけだから、本番までされたことがある方や被害の期間が長い方々はきっと何倍も何十倍も怒りや悲しみ・嫌悪感・不快感を抱えながら生活されているんじゃないかと考えたりして。そんな方々に直接お会いして話したことはまだないのですが、今もそういった負の感情に苛まれ悩み苦しんでいる方々の存在に想いを馳せると、やはり性質上かなり共感力を働かせてしまって、余計に加害者や性への不快感が増すというか。

少し弱るとこんな状態なので、前回の記事に書いた「性教育に携わること」って、多分自分の現状的にはまだ早いんだろうなと思いました。今では、被害者が矛先を自分に向けることは間違っているということはだいぶ分かるようになりましたし、同じように苦しんでいる方がいたら全力でその方自身を肯定したいです。恋愛に関してはまだまだ未熟で、異性と関わることから得られる幸せを実感してみたい、自分の負の感情やトラウマの記憶を上書きしたいと感じる今日この頃です💭

 

虐待に関連して、某放火殺人事件の被告にも思うことはあって。

被告の半生についてまとめられたニュースを見たのですが、やっぱり子供の頃に家庭で虐待を受けたり周りから虐められたりした人たちって、健康的に生きることの難易度が一気に上がってしまうんじゃないかと感じました。事件までは起こさなくとも、大人になる上で一般的な人たちよりも人間関係や自分自身のこととか、何かしらの問題にぶち当たり苦しみ続けてしまうというか。そしてそこから解放されるのには、これまた一般的な人よりもかなりの努力が必要になってしまうというか。自分の経験に基づくと、他者から与えられた悪影響から解放されるには自分一人の努力では本当に難しくて、それを解放させてくれるのも他者であり、あとは絶対に諦めない自分自身の姿勢なんじゃないかと考えています。

ぶっちゃけると、私も数年前までは自分の命なんてどうでも良かったし、他人の命もどうでも良かったんです。だから、「酷いな」とは思っても心から被害者に思いを寄せる思考回路をそもそも持ち合わせてなかったり、某新幹線車内殺人事件の時も被害者よりも加害者の方に気持ちを寄せてしまうこともあったりしてね。正常な人たちからしたらお前も十分酷い人間だと思われるのかもしれないけど、当時は本当にそれほど歪んでいて視野も狭かった。

私も、自分自身改善や解決の意欲をもっていなかったり、大切な人たちやお友達🐈との出会いがなく、出会いがあっても相手から学ぼうとしなかったりしていたら、正直いつ犯罪者になるか分からなかったなと思うことはよくあります。犯罪の種類は分からなくても、最終形態として何か犯罪になるようなことをしてしまうんじゃないかなっていう恐れ的なものはありました。頭では思っていなくても、「自分がひどく辛い目に遭ったから、他の人だって同じような目に遭っても良い」みたいな感覚がどこかあったんじゃないかと今では思います。それが間違っていること、どんな背景や問題を抱えていても他人を犯して良い理由にはならないこと、これも漫画が教えてくれました。これが割と最近っていう…読んだ時の感想も「そうなんだ…」って感じで😂そんなことがなかなか分からない、分かれないほど歪んじゃうんですよ😇

漫画「ひともんちゃくなら喜んで!」より

漫画「ひともんちゃくなら喜んで!」より

若干話は逸れるのですが、私が適応障害で闘病していた時に心配してくれた近所のお爺さんがいて、その方と数年ぶりに話す機会がありまして。その方はほぼ寝たきりになった今でも、私のことを心配してくれて。ご自身が大変な状態になっているのに余計な心配をかけてしまったなと思い、「今は通院も服薬もしていないほど回復したので、もう心配しなくて大丈夫ですよ」と伝えた時、「そうなのか、良かった」と話された後、笑顔で「でも、心配したい」と言われたんです。その時何だか分からないけれど胸の奥がギュッとなる感じがして、涙は出ませんでしたが泣きたいような感覚にもなって。孤独を感じることはないかと心配してくれた他に「たねちゃんは良い子だ」と褒めてくださったりして、「周りの方々が本当に優しくて恵まれてるだけです」って返したりして。

そのお爺さんも昔は教員をやっていて、心の病気で教員を辞め希死念慮がある闘病中の私を当時から心配してくれていました。しかし当時の私にとっては寧ろそれが鬱陶しく感じられていて、「先生だった自分が満足したいから勝手に心配してくるんだろう」「私のことなんて関係なしに持論を押し付けてくるんでしょ」とか、「自己満足に私を使うな」「余計なお世話」などと思っていました。酷すぎて最早笑える😂(しかし当時の自分の状況では仕方ないと思います)

帰宅して改めて思い返してみると、「心配したい」ってなんて優しい言葉なんだろうと思いました。当時の歪んだままの思考だと結局自己満でしょという発想になりますが、今はそうは感じません。関係性がそこまで深くないだけでなくお爺さん自身以前よりも弱った姿でありながらも、私を心配して笑顔で話してくださるのも本当にありがたくて。人に心から感謝はできても、胸の奥がギュッと温かくなるのはもしかしたらこれが初めてかもしれなくて。ああ、もしかして今まで私に足りなかったのはこういう経験だったのかなと思うと、ようやくそのことに気付けた喜び・安堵感だったり、人の心の温かさを感じられた嬉しさだったり、また家族以外の人にすごく大事なものを教えてもらえたという有り難さだったり、負の感情とは違うたくさんの幸せな気持ちでいっぱいで涙が出ます。

話は戻りますが、子供の頃に虐待を受けたり家庭環境に悩み苦しんだりしてきた人たちに必要なのはこの感覚なのかなとも思いました。人から得られる愛情や安心感と、その上で自分自身にも愛情をもつことというか。人は一人では生きていけないとは本当によく言ったものだと思います。人が変わるっていうのは歳を重ねるごとにどんどん難しくなるとよく言われますし、だからこそ子供のうちの経験はかなり大きいものであって。子供たちにとって良い環境を整え、必要な教育をするというのが本当に崇高な理想なんだと改めて思います。ずっと教育現場を出たことがなく社会経験も少ない当時の根拠の薄い考えとは見違えるようだ🙏

 

思考整理・備忘録用の完全自己満ブログなので、かなり偏った内容で不快にさせてしまっていたらすみません🙇💦結局泣きながら投稿することになりましたが、やっぱりこういった大事な変化は残しておきたいと改めて感じました。自分のことだからこれから先もっと生きやすくなれると信じているのですが、その背景には沢山の悩み苦しみ、努力、沢山の人の支えがあったことを忘れずにいたいです。