種をまく日々

生き下手人間の奔走する日常

人間

今日の投稿は長くなります📝自分にとってすごく大事なことだったから。

すごく内面的な話なので、興味のある方だけ読んでいただければ幸いです。

 

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月1回のカウンセリング。今回は目から鱗どころではなく、意識よりも先に本能というか体感的に腑に落ちた感じで自分の体から意識だけが空中に抜けるような、そんな気づきでした。内容としてそんなに難しいことはなく、至ってどシンプルな事実がそこにあるだけでした。始まりはかなりシンプルなことだったのに、長い時間を経て気づけばかなりグチャグチャのごちゃ混ぜに複雑化させてしまった自分がいたのでした。

今日はそんなまとめです。(以下、いつものように教わったことのまとめ)

 

・自分にとって大切なことに次々気づけているようでとても良い。

・「なきゃ」は疲れる。「なきゃ」が起こる時は、同時に本当はやりたくないという気持ちも生じている。「なきゃ」のアクセルと「やりたくない」のブレーキを同時に踏んでいて、暴走車のような感じ。煽り運転だってアクセルとブレーキを踏みまくって、結果人に迷惑をかけたり事故を起こしちゃったりするでしょ。それと同じように暴走していて、良い結果にはならない。

・質問:この「なきゃ」という完璧主義はいつどうして始まったのか?

 ➡️「なきゃ」が始まったというよりは、中学2年生頃から理想主義を極め始めて、大学卒業までにかなり拗らせた。理想主義を拗らせたことで、「なきゃ」も生じてきたと思う。

 理想主義を極めたのは何故か?きっかけはあったのか?

 ➡️最初は「自分がされて嫌なことは人にしない」というところから始まった。それがどんどん極められていった。

 「自分がされて嫌なことをしない」というような教えは日本の教育では良くあることだが、ではその時それができなかったらどうなると思っていたのか?

 ➡️今まで考える(振り返る)ことがなかったのですぐ答えられないし上手く表現できないが、「寂しいから」とか「一人ぼっちが嫌」という理由ではないのは分かる。中学までは明るく割と誰とでも仲良くできていたので、自分が嫌な態度をすれば自分は安心してそこにいられないというか、安心して過ごせなくなると思っていたのかもしれない。

 あなたの「なきゃ」は、家庭でそのように強いられるような状況だったというよりは、自分が安心して楽しく過ごせられた学校の環境や友人関係を守りたいというところから始まったのね。

・質問:家は心地良かった?➡️分からない。高校時代には家の息苦しさが分かり始めた。

 では、家は楽しかった?➡️楽しかったとは言えない。

家がつまらない、つまらないというだけでもかなりの苦痛。家が心地良い場所じゃなかったから、学校や友達に自分の心地良い居場所を求めたし、それを守ろうとした。最初はそんな動機だったのに、いつしかその動機すらも忘れてその強い思考癖(理想主義・完璧主義)・習慣だけが残った。

・本来人と心地良く一緒にいたいからという動機だったのに、人といれば一人でいるよりも「なきゃ」が多く発動することになるので、そりゃあ疲れて人付き合いも嫌になる。

・優等生でいることは自己防衛になる。優等生は周りにとっての正解を考えて選ぶ。優等生には2パターンあって、根っからの優等生と、本当はサボりたいんだけど尻を叩きながら優等生でいようとするパターン。(私は多分後者)

・「なきゃ」で動くのと、自分の意志で自発的に動くのとでは疲れ具合が全く違う。今までは「やりたくない」「嫌だ」とすら自分に言わせなかった。自分の気持ちを尊重することも皆無で、ずっとそれでやってきた。そりゃあ人生終わらせたくもなる。本当の自分を大切にできないと自信もなくなるし、何が自分の本当の気持ちなのか分からなくなり、常に不安や恐れに支配される。

・自分が抱えている不安や不満などに対して、大人になってからだと表現する能力はあっても、子供の頃の自分には気づいて表現する能力がないこともある。子供の頃、本当はどう感じていたのかを今考えてあげて良い。実はこう思っていた・感じていたんだねと聞いてあげる。

・「なきゃ」と思ったら疲れて余裕のない状態なので、「でも本当はどうしたい?」と自分に聞いてあげる。そこで「本当は休みたい」という声が出てきたら横になったり好きなことをしたりして休ませてあげる。そこでようやく回復できる。「休まなきゃ」だと、結局アクセルを踏んでる状態なので休まれない。何時に起きて何時に寝る、今日はこれをやるとかは要らない。やりたくなくてもやらなきゃいけない場合もあるので、その時は「本当はやりたくないんだね」と聞いてあげる。その方が愛をもって自分と会話出来ている。

・私(先生)が教えている方法は、主体がそもそも異なる。エゴを主体とせず、本当の自分自身を主体として働きかけるので、安心感や心の土台の安定感が違う。今までの「自分を改善したい」とか「インナーチャイルドを癒したい」とかはエゴが主体で頑張っているだけ。これまでは自分を客観視することなどできず、自己啓発を頑張ろうとするエゴとそれに反抗するエゴなど、エゴと同じ土俵に立ってずっと振り回されていた。そんな中でひたすらど根性でやってきた。エゴは恐怖や不安等から来るため、いつもグラグラして安定せず常に崖っぷち。癒される順番としては、まずは自分自身を満たしてあげて、その次にインナーチャイルドの頑張りに気づいて癒してあげる。子供の頃の自分に耳を傾けて「そうだったんだね」と聞いてあげる。

・今まで本当によく頑張って生きてきた。あなたのこれまでに悪かったことは何一つない。これからも大丈夫。ジャッジする必要はない。

・エゴが引っ張ってきたからといって、「(悪い状態に)戻っている」と思わなくて良い。悪い方に引っ張られているのではなく、そこから脱して距離を置いて見られるようになってきていて進歩している状態。ゴミ屋敷を掃除する時、手前の部屋が綺麗になっても奥の部屋はまだゴミだらけのままだから、次はそちらを掃除していく。それと同じで、1回では綺麗にならない。徐々に綺麗にしていく。

・エゴは本当の自分に話を聞いてもらいたいから、いつも様子見している。あの子は聞いてもらえたから次私行ってみようみたいな感じなので、一つエゴの話を聞き終えたらまた次のエゴが話を聞いてもらおうとやってくる。

・今までしんどいのが当たり前で、そんなふうに当たり前になっている癖を変えようとしているので最初は大変。新しいことを習慣づけようとするのは大変なこと。何回も繰り返して習慣にしていく。私(先生)自身もエゴとの距離の置き方はまだまだ未熟だと思う。

・父親に対してそのようになるのも無理はない。父親を悪者として常にイガイガした気持ちになるよりも、同じ土俵に乗らずにいた方が楽だったらそっちを選んで良い。

・自分の中のモヤモヤを排泄物や毒素のように認識できるようになってきたのは良いこと。あなたの場合は幼少期からの積み重ねがあるため、自分の心や内面だけでなく肉体的にも毒素が残っている部分はあるので、そこもアプローチしたい。身体をだら〜っとできるような動きや運動、リラクゼーション等がおすすめ。

・人付き合いは全部が全部上手くいかなくたって良い。合わない人もいる。

・自分を大切にする感覚が分からなければ、ちょっとグレードの高いリゾートホテル等を利用してみて、そこで周りから思う存分優しく丁寧に扱ってもらったり自然や美味しいものなどを堪能したりしてくると良い。それだけ自分は大切にされて良い存在だし、そこにお金は惜しまない。

・美味しいものを食べる、行きたいところに5分でも一日でもいる、絵を描きたいなら描く、何かで遊びたいなら遊ぶ。

・あなたの場合、小さなことに対しての感情も一つ一つ認めてあげると良い。トイレットペーパーがないみたいな、小さなイラッとか。小物一つに感じる小さな「なきゃ」とか。

・子供の頃から、お腹にはかなりのダメージを与え続けている。子供の頃に便秘をこじらせていたのもそりゃあそうなる。お腹のケアをしてあげたい。

 

 

⬇️カウンセリングとその後の感想

・過去を振り返るというのは今まで何度もやってきたことで、中学時代から理想主義を拗らせたことや「自分がされて嫌なことはしない」から始まったことは自覚していた(当時、周りに当たり散らす友人に不快感を覚え、自分も同じようにはなりたくないと思ったのがきっかけで、周りに自分の悪いところを聞いて回ったら「不機嫌な時のオーラがすごい」みたいなことを何人かに言われて、そこから自分の負の感情を周りに出さないようにし始める。(既にここから大きな間違い😂))。しかし、「なきゃ」がいつから始まったのかや、そもそもどうしてそう思い始めたのかという根本的な理由まで振り返ったことがなかった。安心して人と心地良く一緒にいたいと思っていたのに、いつの間にかその動機すら忘れ去って人といると振り回されて疲れるという本末転倒な状態になっていた。始まりが「自分の安心出来る居場所が欲しい」という理由だったのなら、これからは自分自身が自分の居場所になれば良い。そう分かったらすごく腑に落ちた。

・自分は、「なきゃ」と正解を選ぶ優等生の特性が絡み合って余計に拗らせたと分かった。

・今までは「休まなきゃ」だったから結果休まっていなかった。趣味に関しても、「ファンとしてこれはやらなきゃ」とか「好きというからにはここまでやらなきゃ」とかそういう使命感・義務感ばかりで楽しめていなかった。休まっていない分、結果「やらなきゃ」と「やりたくない」の狭間にいることが常で、だからこそダラダラしてしまう時間も多くなっていたと思う。「なきゃ」を無くしたら、すんなりと次の行動に移れるようになった。

・小さなことにイラッとしても良いと言われたのは救いだった。イラッとすると、自分の器が小さいとか自分が未熟だからだとか、最終的に自分を責めていた。人に対してイラッとしたり負の感情を抱くことを許していなかったんだと改めて気づいた。そんな感情も認めて良いんだと思ったらすごく楽になった。

・いつもはストレス源の父親が同じ空間にいるだけで、意識がそちらに向かって気をかなり張り詰めさせてイガイガし息も苦しかった。しかし、カウンセリング前日に実家に寄った際、父親が同じ場所にいたのに初めていつものように感情が張り詰めなかった。それは先生の「自分の気持ちを良い悪いでジャッジしないでただ聞いてあげる」「家族と同じ土俵に立つな」という教えが活きてきたからだと思う。気が張り詰めなかったことで、「いや、それはおかしいでしょ。あの父親が悪の根源なんだから気を緩めちゃだめ、悪として徹底的に嫌わなきゃダメでしょ」みたいな考えも浮かんだが、先生が「それが楽だと分かったら、楽なんだなとそっちを選んで良い」と教えてくれたことで、「それで良いんだ」とかなり気持ちが楽になった。自分を苦しめた問題に対して逃げずに真正面から対峙しようと頑張ってきたが、それでも未だに自分は苦しいままだったし、ずっと囚われ続けているので楽になれることもなかった。家族と同じ土俵に立たないことで実家のことに囚われなくなっても、自分を大切にできるようになれば、それは問題から逃げているということにはならないんじゃないだろうか。

・今までは外界から自分を守るために全く人に目を向けず、半径数メートル内か下ばかり見て行動していた。長年周りを広く見渡すことができなかったが、カウンセリング後は「なきゃ」が薄れ気持ちがさらに楽になったおかげか、遠くまで幅広く見渡すことができた。焦点を遠くに合わせることが増えてきため、この数日だけでも視力も良くなってきたように感じる。

・気持ちの書き出しもブログ更新も、「やらなきゃ」ではやらないようにし始めた。やらなきゃだと書き出したかったはずのものも浮かんでこなかった。

・今まで自分のことも他人のことも、一人の人、人間として見ていなかったと改めて思った。自分自身に対しても機械的な対応で、他人に対しても人としての尊重ではなく機械的に対応して上っ面に配慮しているだけというか。そもそも「人間」の認識が少し違っていたというか、人間というものがどういうものなのか、所謂「人間らしさ」というのが分かっていなかったと思う。本当の自分も人間だから、たとえ相手が自分自身であっても何度も声を無視されたらそりゃあ話もしなくなると思った。

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「なきゃ」に本格的に悩み始めていたので、とても有難いタイミングで沢山気づきをいただきました。

そんな矢先、このカウンセリング後のお盆休み突入のタイミングで、同僚の私に関わる手続き間違いが発覚しました。同僚のミスにより私が問い合わせなくてはいけなくなった&下手をしたら損失が出るため、間違いに気づいた時はすごくモヤモヤして気が気ではありませんでした。しかもお盆休みのため連休明けにしか問い合わせできず、数日間解決されない状態が続くことへの苛立ち。

ここで同時に二つの感情が湧き上がり葛藤。私自身自分に対して厳しく、間違いのないようにとかなり気を張ってチェックもするので人の間違いに寛容でなく必要以上に気が立つ。かといって人に対して負の感情をもつことを悪とジャッジして自分に許していないので、自分に関することなのに同僚を信じ切ってミスに気づけなかった自分に責任があると過度に責任を感じ、いつも助けてもらってるのにと違う場面のことを取り上げてきて相手を悪く思う自分も責める。

しかし今まではこれが当たり前で、人への負の感情を認めずに自分を責める方向で完結し、負の感情は行き場がないまま自分の中に押し込まれ溜まり続けていました。今となってこれは本当にしんどい。生まれた感情を認めてあげることも発散することもできていないまま、違う時にしてもらったことや別の「良い」ようなこと、全く場違いなことを取り上げてきて違う方向を向かせるか、寝て無理やり次のことへ意識を移らせていくかというやり方でした。それは自分の気持ちに対して真摯ではありません。自分が本当は嫌だと思ったのに、それを認めずに責めたり全然違うことに話を変えられたりしたら、そりゃあ本音を話すのも嫌になる。

人間ってこんなに単純なものだったのね。話を聞いてくれないなら、それが自分だろうが他人だろうが心を閉ざす。複雑化させて生きにくくなったその動機も、実は「安心して過ごしたい」というとてもシンプルなものだった。ただ安心して過ごしたいだけだったのに、安心できる居場所を守るために自分を誤った方向に強化して、いつしかその理由も忘れ、自分の声を無視して変に強化しすぎて自分自身がつらくなって、そんな自分を守るために武装して、武装も極めすぎて感情が分からないどころか動かないコンクリートになった。こうやって表現して見ると、なんてこと…😇自分の声を聞けないことで、良くないものがどんどん溜まって内側が腐敗してくる。本当にゴミ屋敷や排泄物と一緒なんだな。

今回の同僚のミスは、今まさに自分にとって必要な問題として起きているのだと思いました。お盆休みに入らなければすぐに解決されて、この問題と向き合うこともできなかったでしょう。前にも話した、「人生は、必要な時に必要な人と出会い必要なことが起こる」という私にとっての金言そのもので、本当に必要なタイミングで起きてくれたのかと思うと感謝できます。

 

 

この量なので、疲れている時の書き出しは無理でした😇こういう時にはタイピングがかなり助かる🙏

お盆休みはありませんが、休みがなくても「なきゃ」から解放されただけでかなり心身ともに楽になり、毎日喜びを感じています。

休みは休みで、自分が何をしたいのか耳を傾け生活していきたいです。

5月から通院を始め、3ヶ月でここまで楽になることができたことに驚きしかありません。数ヶ月後の私はどうなっているのでしょうか、楽しみです☺️🌿